【ブライトンの記憶vol.2】田中史朗―ケンカ腰の対話でつながった絆
ラグビー日本代表戦 4週連続WOWOWで!
11/2(日)午前0:45「日本vs南アフリカ」生中継
2015年9月19日、イングランド・ブライトン。世界を驚かせた日本代表の歴史的勝利から10年。2015年9月19日、イングランド・ブライトン。世界を驚かせた日本代表の歴史的勝利から10年。9番を背負ってグラウンドに立った田中史朗の言葉で、“奇跡”と呼ばれた勝利までのチームの道のりを振り返る。(文/田村一博)
2015年の9月19日。桜のジャージーが世界を熱狂させた日に9番を背負った人は、その80分の映像を見返すことはない。
涙もろいことで有名な戦士は、「だって泣いちゃいますから」と言って笑う。
一方で、鼻っ柱の強さでも知られる。鬼軍曹のエディー・ジョーンズ ヘッドコーチ(以下、HC)と何度もやり合った。
日本代表が、「ブライトンの奇跡」と呼ばれる南アフリカ代表戦勝利を楕円球史に刻むことができたのは、2012年に世界的指導者が指揮官に就き、チームにハードワークを課して肉体を鍛え上げたことに加え、新たなマインドセットを植え付けたことも理由のひとつだ。
スクラムハーフとして、布陣の真ん中に立っていた田中史朗は、ジョーンズHCの指導により選手個々の意識改革が進み、その先に南アフリカ戦勝利があったと話す。
そして、チームが変わっていく中で重要な役割を果たしたのが田中自身だった。
現在はNECグローンロケッツ東葛のアカデミーディレクターを務めるその人は、2008年5月のアラビアンガルフ戦で日本代表デビューを果たし、2019年に日本でおこなわれたワールドカップ(以下、W杯)の準々決勝までに75キャップを積み重ねた。
パナソニックワイルドナイツに所属していた2012年にはニュージーランドのオタゴ州代表としてプレー。翌年からはハイランダーズの一員となり、日本人初のスーパーラグビープレーヤーとなった。
田中は開拓精神を貫いていく中で、いち早く真のプロフェッショナルマインドを持つ選手となったから、ジョーンズHCのもとで、より輝いた。指揮官の意志を汲んで動くこともあれば、考えをぶつけ合った。仲間を叱咤したり、寄り添ったり。そうやって生きたから、チームや選手が、どう変化していったかよく知る。
34ー32のスコアで南アフリカに勝利した試合についても、味方から伝わる自信と、相手の心の乱れを感じていた。

選手たちは落ち着いていた
ブライトンでの南アフリカ代表撃破について、奇跡か必然かを問えば、この人も「スポーツに奇跡はないと思います。僕たちがやってきたことが、あの日の結果に出たっていうことだけなので」と言い、だから「必然」とする。
キックオフから5分後の体感として「勝てるぞ」と思った。その根拠を、「日本代表の選手たちがしっかり前に出ることができていたし、相手にプレッシャーをかけていたので」と回想する。
2015年W杯までに、ハイランダーズで3季を過ごしていた。そこで南アフリカ勢と戦ったし、ザ・ラグビーチャンピオンシップなどで南アフリカ代表のパフォーマンスを身近に感じていたから、「もっと凄いんじゃないかと、僕も含め、みんな、勝手に過大評価していたかもしれません」。
ところが、体を当てて「やれる」と感じたからチームは勢いづいた。そして、落ち着いていた。
「あの試合、一人ひとりの選手が、ちゃんと(内容のあることを)喋りながらも、リーチ(マイケル主将)の声をよく聞いて、動いていたのを覚えています」
もちろん、相手のとんでもないパワーに圧倒されるシーンもあった。田中自身が、「もしあの試合で負けていたら、僕と三上(正貴/PR)は日本に帰れなかった」という2つの失トライは、タックルを無力化されたものだった。
後半3分にLOルード・デヤハーが挙げたトライは、ラックから出たボールを受けた相手の背番号4が三上のタックルを突破して走った。
そして後半21分、田中は途中出場のHOアドリアーン・ストラウスに低く体をぶつけるも、吹っ飛ばされる。インゴールに入られた。
ただ、一対一になればそうなるのは分かっていたから、日本は最初からチームとして運動量を増やし、常にダブルタックルでダークグリーンのジャージーを止めようとし続けた。その中で、何回か突破されることは織り込み済みだったはずだ。
強気の9番は、やれることはやり切って後半26分、日和佐篤にバトンを渡した。サイドラインの外に出てからは、「ファンの人たちのように、ただただ勝ってくれと祈りました」と愉快そうに笑う。
相手が焦っているのは、ピッチにいる時から感じていた。
「それまで(大会以前に)見ていた南アフリカって、もっと余裕を持って戦っていたんですよ。特に格下のチームと戦っている時は笑顔も見られていたし、ペナルティゴールを狙うことなく、強気で攻めていた。でもあの日は、違った」
大男たちの集団は、時間の経過とともに表情が険しくなり、PGも重ねた。いつもと違う様子の相手について田中は、「オールブラックスと戦っているような南アフリカに見えました」と表現した。
思うように戦えず苛立ち、自信が揺らいでいたからだろう。そして、「それくらい疲れているように感じました」。
相手とは対照的に、日本代表が自信を持って大会に入っていけたのは、開幕直前、南アフリカ戦の2週間前におこなわれたジョージア戦に勝ったからだと田中は感じていた。
グロスターでおこなわれたそのテストマッチは13ー10。当時すでに2度のW杯優勝経験があった南アフリカと直後に対戦するのに、世界の上位国ではない相手に辛勝する状態では……と不安に感じそうなものだが、勝負を決めるトライを取り切ったFWは、パワー自慢の相手を肉弾戦で攻め切ったことに自信を得て本番へ向かった。
ベンチに下がった時のスコアは22ー29も、田中は安心して試合を見つめた。それほど、目の前で戦うチームメートたちを完全に信頼していた。
「(PKを得た)最後のシーンの前は、どっち、どっち、という感じで、(PGを狙わずに)お、スクラムかーい、と。(コーチボックスの中で)エディーがブチ切れていることなんて、まったく知りませんでした。僕、堀江(翔太/HO)、山田(章仁/WTB)ら交代したメンバーたちみんなで、めっちゃテンションが上がっていました。プレーしている選手たちの判断に、なんでやねんというのはなかった。最後のスクラムも不安定だったので、はよ出せ、はよっ、と」
やがてホイッスルが鳴り、日本ラグビーの歴史は変わった。

言い合えるチームに
ジョーンズ体制発足から4年間、チームはこの日の勝利へ向けてハードワークを重ね、『BEAT THE BOKS』を成し遂げた。
しかし、田中にとってのスタートは、自身が初めて参加したW杯、2011年大会を勝利なく終えた時だった。人一倍ファン思いで、「フミ」と呼ばれて愛される人は、ジョン・カーワンHC体制で臨んだその大会で屈辱を感じた。
「自分が代表としてやらなければいけないことをやれなかった。なので、罪滅ぼしというか、もう一度日本のラグビーファンの方に喜んでもらえるよう、必死でやらないといけないと誓いました」
田中が言う代表としてやるべきこととは、世界の国々がベストコンディション、そして極限の集中力で臨むW杯へ、自分たちも同じマインドで臨むこと。あの大会で、桜のジャージーを着た男たちは、そうできていなかった。
ニュージーランドで開催された2011年大会、日本はフランス(21︱47)、ニュージーランド(7︱83)に完敗した後、トンガにも敗れ(18︱31)、カナダに引き分ける(23︱23)結果に終わった。
田中はその大会でW杯の重さと代表チームの責任をあらためて思い知った。
「例えば大会前までテストマッチで5連勝していたトンガにも負けました。ワールドカップは違うんですよ。対戦相手は、普段のテストマッチを戦っている以上の思いで向かってくる。彼らは、活躍して(より良い)契約を勝ち取りたいし、人生を懸けて戦っている。そして、それぞれの試合を世界中の人たちが見ている」
日本が強豪国に歯が立たず、トンガにも敗れ、1勝もできずに大会を去るシーンが広く発信されたことを田中は悔やんだ。恥ずかしかった。そして、ファンに申し訳なかった。そんな思いを払拭するための道を歩む決意をした。
そんな時に目の前に現れたのが2012年、代表の指揮官に就任したジョーンズHCだった。
覚えているのはエディー体制となった後、2013年から在籍したスーパーラグビーのハイランダーズでの活動を終えて日本代表に合流した時のことだ。
メディアの取材に答え、「勝ちたい。(日本代表は)もっと意識を高く持ってやらないといけない」と話したことが、「エディーに物申す」のような感じの記事になった。その翌日、HCに呼ばれた。
「素晴らしい意見をありがとう」と切り出された後、ふたりは口論になった。
「どうやら、僕がエディーを攻撃していると思ったらしいんです。だから、それは違うぞ、俺は日本代表で勝ちたいだけだ、と伝え、思っていることを全部言いました」
日本人選手はなかなか意見を言えないことを理解してくれ。豊富な経験があるあなたの指導を受けて、強くなりたいんだ。そのために信頼関係を築きたいから、いま話している。
その時やっている練習は、なんのためにやっているかいちいち説明してくれ。選手を怖がらせるのではなく、モチベーションを上げるようにしてほしい、と。
「きつい練習でも、なんぼでもやる。でも、そうしてくれた方が、もっといい練習になる、と伝えました。2011年の大会で日本代表の価値を落としたので、とにかく勝ちたいんだ、と繰り返しました」
ケンカ腰で始まった対話は、最終的には目指すところが同じと分かり、絆ができた。両者とも、言いたいことを言う性格だからその後も衝突は何度もあったけれど、お互いに意見を出し合うことが周囲の選手たちの姿勢も変え、チームを強くしていったと理解している。
田中はジョーンズHCの指導を受け始めた頃、ストレートにものを言う人だと分かった。
「練習中、選手に『帰れ!』と言うこともある。日本人選手は、それでもやり続けるけど、外国出身選手の中には本当にグラウンドから出る人もいました」
感情的にも感じられるが、実はそれは、やらされるのではなく、自主的に動き、判断する選手を求め、そうなってほしくて、きつい言い方もするのだと気づく。
「自分に厳しくなれずにスコッドから消えていく選手もいました。もちろん、残りたいのに選ばれなかった選手もいるわけですが、そういう時に涙を流す選手も増えてきました。選ばれて涙する選手も。僕もそう」
そうやってチームは、日本代表のプライドと、世界と戦える力をつけていった。
日本ラグビーの歴史を変えた一戦を見ると、いまでも涙が出る理由を、「そこまでの道のりと感謝の気持ちがあふれ出るから」とする。
「罪滅ぼしの気持ちからスタートし、あの試合ができた。2019年大会も、ファンの声援を日本国内で受けて戦えたからこそ、あの成績が残せた」
いろんなことがあった。思い出すと、どうしても涙が出る。「だから取材を受ける時も、あの試合の映像をその場で見ながら……というものは、できるだけないように、とお願いしているんです」と表情を崩す。
「それとエディーと話した時に、あれは過去の話だから、未来を見て、次へ進もうとなった。彼はいま、あらためて日本代表を指導していますから」と続け、「今回もしっかり結果を残してほしいし、僕も、そうなることにつながる活動をしていけたらいいな、と思っています」と代表愛を口にする。
ジョーンズHCは、ことあるごとに「(これからの日本代表にも)フミのような存在に出てきてほしい」と言う。
名指しされる本人は、「言いたいことを言い合えるチームにならないといけない、ということでしょう」と、言葉の真意を理解する。
ジャパンの現スコッドの選手リストを見て、10年前の自分のような存在になれそうな候補者が「いろいろ、いるじゃないですか」と相好を崩した。
「エディーと話し、日本人選手、海外出身選手とも話し、どんどんつないでいってほしい」
そうやって本当の意味でのひとつのチームになることが、新しい歴史を作る準備の第一歩であり、成熟した集団になるための芯になる。2011年大会から3大会を経験して、そう確信を得ている。
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