その他 2020.07.17

【再録・ジャパン_07】廣瀬俊朗[2002年7月号/選手秘話]

[ 編集部 ]
【再録・ジャパン_07】廣瀬俊朗[2002年7月号/選手秘話]
「早稲田には勝ちたい。去年は2回も、コテンパンにやられて。悔しくて、悔しくて、正月は家で泣いてました。」 (撮影:高見博樹)

*『ラグビーマガジン』にかつて掲載された日本代表選手のインタビューを抜粋して再録。

【しんどい生き方だと思いますけど、いつも自分に厳しくありたい。】
[連載・解体心書] 廣瀬俊朗(慶大3年)

克己。王道を歩んできたわけではないけれど、知る人ぞ知る存在だった少年時代。5歳で楕円球と戯れはじめた幼子はハタチになって日本代表Aにも選ばれ、憧れだった日本代表の座がはっきりと視界に入っている。聡明なのに熱い。小さい体で大きな存在感。タイガー軍団でも上級生となり、妥協を嫌う男の思想がチームにも影響を与えそう。(文:村上晃一/年齢、所属などはすべて当時のもの)

「高校の頃から、選手秘話に取り上げてもらうのがラグビー選手としての目標だったんです。もう、いつ辞めてもいいな。ちょっと、取材が早過ぎますよ(笑)」

 どうやら、本当にそう思っていたらしい。照れながら写真撮影に応じる姿は、筋肉が隆起した肩と上腕を除けば、ごく普通の大学生だ。

 4月に行われた日本AのNZ遠征では、最終戦でNZUと対戦。スーパー12で活躍するシャノン・パク選手(ハリケーンズ)と、CTBとして対面に。

「あんなに速いCTBは初めてでした。普通は追いつくはずのところでも、全然届かなかった。ほんと、いい経験でした」

 日本代表スコッドに限りなく近いSOは、軽く大阪弁を織り交ぜて、秘話を語った。

「生まれたのは、大阪の吹田です。小さな頃は千里ニュータウンにいて、それから豊中に。5歳くらいから、吹田ラグビースクールに通い始めました。実は、いくつかのスクールを見学したのですが、あるところは、試合に負けると子供を正座させて説教していた。親も僕も驚いてしまって。それに比べると吹田は雰囲気が良かったんです。毎週日曜日、父か母が万博記念競技場に連れていってくれました。最初は行くのが嫌でしたね。日曜だし、僕は人見知りするところもあって」

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