コラム 2025.06.03

【ラグリパWest】デンさんの歩み㊤。田村義和 [静岡ブルーレヴズ/アシスタントコーチ]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】デンさんの歩み㊤。田村義和 [静岡ブルーレヴズ/アシスタントコーチ]
静岡ブルーレヴズのスクラムに責任を持つ田村義和アシスタントコーチ。住まう遠州・浜松は若き日の徳川家康が岡崎から当地に居城を移した。信長、秀吉のあとを受け全国統一する、いわば出世の地。チームも家康に続けるよう、田村コーチは奮闘する

 愛称は「デンさん」である。田村義和の<田>からとられた。

 デンさんは46歳。静岡ブルーレヴズのアシスタントコーチである。担当はスクラム。チームの短縮形は<静岡BR>だ。

 PRあがりだけに体はごつい。現役時代は183センチ、110キロ。その表情は柔らかい。笑うと目は細く、黒くなる。作物を大切に育てる朴訥(ぼくとつ)なファーマーの雰囲気が漂っている。

 静岡BRで採用や編成を担当する西内勇人(はやと)は短文を送ってくれた。
<田村さんの育成力があって、作田がよくなった感じがしています>
 西内は苗字を使う。尊敬が見て取れる。

 作田駿介は流経大出身の2年目HO。今季、プレーオフも含めて19試合で出場13(先発2、入替11)とする。新人時は入替2のみ。数字を大きく伸ばした。作田は日野剛志に次ぐ二番手に収まる。日野は35歳。日本代表キャップ5を持つ。

 西内の書いてくれた育成力をデンさんに確かめてみる。
「僕は育ててない。やってないっす」
 自己顕示欲はない。
「でも、聞く耳は持ってくれています。いいなあ、って思います」
 作田には成長に必要な<素直さ>がある。

 デンさんは教え子たちを尊重する。
「僕は僕、彼は彼。僕のアドバイスが必ずしも合っているとはかぎんない」
 体の大きさ、筋力、柔軟性などすべて違う。
「こうしろって、言われてやらなきゃいけない時もある。でも、そうじゃないことも多い」

 唯一、続けることは求める。
「やってみたらどう?ってアドバイスして、できなかったすぐ諦める。どうして?」
 技術の習得には膨大な時間がかかる。それが簡単に身につくなら、みな日本代表だ。<継続は力なり>である。

 その継続で大切な2つをスクラムに結びつける。アルファベットのZを宙に書く。
「姿勢とフィジカルは最低いる」
 姿勢は四つん這いでタイヤを押す「亀」と呼ばれる練習に代表される。体の強さはウエイトトレーニングを軸に作ってゆく。

 デンさんは評する。
「いい練習は単調。やりたがらない。でもウチの稲場はやっています」
 稲場巧。近大出身の右PR。今季、大学卒業を待たずしてリーグ戦に出られるアーリーエントリーを使い、3試合に入替出場した。

 よきスクラムは、個々の確立から、それを8人の集合体に押し広げてゆく。
「ひとりじゃあ無理。周りをどう生かすか。助けてくれる人がいます。近くに、反対側にもいる。それを感じないといけません」
 その哲学には師とも言うべき長谷川慎、愛称「シンさん」の教えが反映されている。

 長谷川はデンさんより7学年上の53歳。ワールドカップでは日本代表のスクラムコーチを2019、2023年と2大会連続でつとめた。静岡BRでは同じアシスタントコーチだが、長谷川はスクラムを含めFWを統括する。

 デンさんが右PRとして静岡BRに加わったのは15年前だった。当時はヤマハ発動機ジュビロ、ラグビー界では「ヤマハ」で通った。翌2011年、長谷川がコーチとして、監督の清宮克幸とやって来る。2人はサントリー(現・東京SG)のチームメイトだった。

「シンさんが来て、スクラムはガラッと変わりました。僕の3番(右PR)は相手の1番(左PR)を止めなくてもいい、気にするな、まっすぐ前に出ていけ、と言われました」

 デンさんは1番、2番(HO)の両方から圧力がかかるが、長谷川は受けではなく、攻めさせる。ヤマハはスクラムにおいて開眼、2014年度には日本選手権で初優勝する。52回大会の決勝はサントリーに15-3。これは1982年(昭和57)のヤマハの創部以来、唯一国内で頂点に立った記録である。

 2017年、長谷川は日本代表のスクラムコーチに転出する。それに合わせるように、デンさんは現役引退し、後事を託される。2020年には日本を拠点にしたサンウルブズのスクラムコーチを1季だけ兼務した。

 サンウルブズは南半球の国際リーグ<スーパーラグビー>に参戦していた。この2020年、コロナの影響で大会は中断、そのままチームは解散する。活動5年だった。

 サンウルブズで海外を経験したデンさんはコーチとして9年、選手として7年、この青いジャージーに関わり続けている。現役時代の出場試合数を聞いてみた。
「覚えてないっす」
 笑う。おおらかさがある。

 そのヤマハへの加入はラッキーだった。32歳になる春である。
「韓国人のフロントローが移籍して、連絡がありました」
 朴誠球(ぱく・そんぐ)はNEC(現GR東葛)に行った。

 連絡をくれたのは久保晃一だった。ヤマハでLOやバックローとして日本代表キャップ19を得る。デンさんのチームメイトだった。
「日本A代表で一緒でした」
 2005年に結成された、日本代表の下に位置したチームである。

 デンさんの希望はただひとつ。
「社員でお願いします」
 会社側は当初、プロを考えていたが、本人の希望をくみ、すぐ社員採用に切り換える。

 ヤマハはデンさんにとって所属5チーム目だった。その前の2チームはプロ選手で活動した。ともにチームが縮小され、契約延長はかなわなかった。プロの悲哀を感じる。次は社員で、チームの存亡に関わらず、安定した生活を送りたい。結婚もした。そう考えるのは当然だった。

デンさんの歩み㊦〈6月4日掲載〉に続く)

PICK UP