コラム 2025.06.04

【ラグリパWest】デンさんの歩み㊦。田村義和 [静岡ブルーレヴズ/アシスタントコーチ]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】デンさんの歩み㊦。田村義和 [静岡ブルーレヴズ/アシスタントコーチ]
静岡ブルーレヴズの田村義和アシスタントコーチは2010年度から7シーズン、右PRとしてこのチーム(当時はヤマハ発動機ジュビロ)のために戦った。写真は雨中でのサントリー(現・東京SG)との戦い。田村さんは右で青いジャージーに黒のヘッドキャップをかぶっている。その左に映る黒いジャージーは真壁伸弥さん。LOとして日本代表キャップ37を得る(写真提供:静岡ブルーレヴズ)

 田村義和、愛称「デンさん」は静岡ブルーレヴズのアシスタントコーチだ。担当はスクラム。チームの短縮形は<静岡BR>である。

 デンさんは現役時代、このチームの前身であるヤマハ発動機ジュビロ、通称<ヤマハ>の右PRだった。2017年の現役引退後、コーチに横滑りする。選手としては5チームに在籍した。いわゆる<苦労人>である。

 ヤマハの前にはサントリーフーズにいた。2009年の1年のみ。チーム縮小が決まる。
「同じ会社に2つもチームはいらない、ということだったと聞いています」
 グループの上層部はサントリー(現・東京SG)に注力することを決める。

 サントリーフーズの前にはセコム(現・狭山RG)に4年いた。このチームも縮小に走る。2008年のリーマンショックの影響もあった。デンさんは2チームでプロ契約の続行がままならない。そのことがヤマハ加入時に社員にこだわった理由でもある。

 セコム入りには早大ラグビーのつながりがあった。防衛医大の准教授だった益子俊志(ましこ・としゆき)が10学年上でセコムの部長だった中村康司に推薦してくれる。防衛医大は自衛隊のための医官を育てる大学だ。

 その自衛隊がデンさんと益子の縁を生む。デンさんは青森の高校、弘前実を卒業後、千葉の習志野自衛隊にゆく。落下傘で降下する第1空挺団である。この部隊は国内唯一であり、最強の呼び声が高い。

 デンさんは入隊後に競技を始めた。
「中隊ごとのラグビーの試合がありました」
 183センチ、110キロになる体の大きさをかわれ、中隊から空挺団を代表するチームに抜擢される。その時のコーチが益子だった。益子は今、日大のスポーツ科学部の教授で学部長をつとめている。

 習志野に行った理由がある。
「関東に行けて、給料がよかったのです」
 都会へのあこがれ、そして落下傘降下などをすると手当てがもらえた。国防の任についたのは、父も自衛官だったからである。

 その弘前実時代は写真部だった。
「学校のきまりで何か部活をやらないといけなかったのです」
 サッカーをやめたあとで、アルバイトをしたかった。とりあえずの写真部だった。

 弘前実にとって、デンさんはラグビーで小笠原博以来の有名人になる。小笠原はLOとして日本代表キャップ24を得た。
「お名前は知っています」
 習志野自衛隊で競技を始めた経歴も同じ。小笠原は近鉄(現・花園L)で活躍した。3年前、79歳で世を去った。

 その習志野自衛隊を6年で除隊する。ラグビーを中心に据えたくなり、釜石SWに移った。ここでも人のつながりがある。
「自衛隊ラグビーの先輩が高橋善幸さんの親戚で、話をつないでくれました」
 高橋は当時、釜石SWの事務局長。前身の新日鉄釜石(現・日本製鉄)や明大時代は突破力に優れたNO8だった。

 釜石SWは新日鉄釜石がクラブ化したチームである。リーグワンの前身となる全国社会人大会と日本選手権で初の7連覇を達成する。その始まりは1978年度(昭和53)、全国社会人大会は31回、日本選手権は16回だった。

 当時の釜石SWにプロ選手は少なく、多くは主業を持った。デンさんはごみ収集やくみ取りをやった。プロはセコムからである。
「自衛隊の時の給料が高くて、それに見合う仕事がなかなかありませんでした」
 その会社への貢献度を伝える逸話が残る。

 ヤマハ時代、釜石SWと試合をした。
「会社にあいさつに行ったら、試合で出たゴミ全部を無償でもって行ってくれました」
 2011年の東日本大震災から3か月もたたない6月だった。復興祈願の試合である。デンさんは右PRで先発。76-5で大勝した。

 釜石SWにいた2004年、日本代表の下に位置する日本選抜に選ばれる。デンさんはラグビーへの意欲がさらに増す。2年でセコムに移り、サントリーフーズ、ヤマハとそのラグビー履歴は続いてゆく。

 現役を上がれば、コーチにつけてもらえた。そのデンさんを園田晃将(てるまさ)は知る。関西大のコーチである。
「サニックスからもらい受けた海外製のスクラムマシンがあり、田村さんが見に来ました。会社で製造する計画があったようです」
 園田は現役時代、サニックスのFBだった。チームは2022年に休部した。

 デンさんはスーツ姿。礼儀正しく大阪に来る。園田は傘をさして案内した。
「びっくりしました」
 デンさんは服装や雨に関係なく、いきなりマシンにぶつかり、首を突っ込んだ。身をもって調査する。

 その後、静岡のデンさんから連絡がある。
「マシンのパッドを少し貸して下さい」
 オチはしっかりつける。青森出身なのに、大阪での出来事ということもあったのだろう。熱心とユーモアが同居する。

 そのデンさんが指導の一員である静岡BRは5月17日、プレーオフ1回戦で神戸Sに敗れた。20-35。デンさんは総括する。
「次にかける思いが神戸は強かったです」
 1週間前、レギュラーシーズンの最終戦、18試合目はこのカードだった。スコアは29-23。神戸Sは雪辱を期していた。

 その結果は別にして、静岡BRはリーグワンのレギュラーシーズンで最高の4位に入っている。プレーオフも初の進出だった。

 デンさんの目標がある。
「日本一です」
 そのため、自身もまた勝負に出る。昨年度から社員を離れ、プロになった。60歳定年まで15年ほどを残しながら…。若い頃に望んだ安定を捨てた。その覚悟はラグビーに、スクラムに、さらに突き進む力になる。

(デンさんの歩み、終わり/㊤はこちら

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