【ラグリパWest】好きな道を歩む。江藤友紀 [九州龍谷短期大学]
高校3年のころ、目の前にはラグビー強豪大学への道が伸びていた。リーグワンから日本代表へも通じる可能性もあった。
江藤友紀(えとう・とものり)はあえて別の道を取る。その先にあるのは保育士だった。
「今は毎日、楽しいです」
愛称「トモノリ」はアンパンマンのように丸い顔を緩める。目じりは下がり、黒目がちの瞳は温かさに満ちる。
通うのは九州龍谷短期大学。学ぶのは保育学科。女子が多い中ではひときわ大きい。175センチの130キロである。
「体重は高校の頃と変わっていません」
このまま保育士になれば、この国で最重量になるかもしれない。
高校は福岡の県立校、浮羽究真館。ポジションはもちろんプロップだった。監督は保健・体育教員でもある吉瀬晋太郎(きちぜ・しんたろう)。京都産業大のOBだった。トモノリを母校に連れてゆく。当時、高校ラグビーの指導者になって5年目だった。
「初めて先生の前に出しても恥ずかしくない選手に出会い、育ってくれました」
先生とは監督の大西健を指す。吉瀬は卒業後、1年間コーチをつとめたこともあった。
大西が半世紀近くをかけて鍛え上げたスクラム、特にFW第一列の強さは全国にその名をとどろかせる。吉瀬のころ、まだ3時間の組み合いはざらにあった。その中から、古くは田倉政憲、最近では山下裕史などの日本代表のフロントローが生まれる。キャップは田倉16、山下は51。田倉は京産大のコーチ。山下はリーグワンの神戸所属。吉瀬とは同期にあたる。
その看板の位置でトモノリは大学生とスクラムを組み、ラインアウトで捕球者を差し上げた。その動きを見て、大西は言った。
「シンタロー、よかったらウチで預からせてもらう」
スポーツ推薦入試へのゴーサインが出る。
トモノリを評価したのは大西だけではない。同じ時期、臨時コーチとして浮羽究真館を見ていた横井章も言ったという。
「早稲田の練習に連れて行く」
当時、傘寿(さんじゅ)に近かった横井は母校に引っ張ろうとした。センターとしての日本代表キャップは17。ただ、当時のキャップ対象試合は少なく、初選出の1967年から8年間で19。その時代、横井は桜のジャージーの中心にいたことになる。主将もつとめた。その本物が魅力を感じた。
ところが、トモノリは楕円球の世界における高評価にも浮かれることはなかった。
「自分は高校からラグビーを始めました。そのメンバーとラグビーをするのがとても楽しかった。違うチームでそうなるかは疑問でした。それに高校の時には脚をケガすることもありました。大学でそうなれば、チームに迷惑がかかります」