【コラム】本を書く人に。 [ラグマガ・サイドB]
道着をつければ県内では敵なしの才能だった。名前はワタル。そこからラグビーに行き着いたのは、母親の強い意志からだった。
小5の時、母親が突然、指導者に連絡し「うちの子はもう柔道はしません」と挨拶、それ以来道場には行くことも許されなかった。我が子の鼻が高くなっているのが許せなかった。母親は教師で、ワタルを女手一つで育ててくれた。この時の母は頑なだった。柔道のみちを断たれたワタルはすぐに次の夢を探した。それが、ラグビー。中学時代はラグビーの身体づくりのためにと陸上部に所属し、花園を念頭に國學院栃木高校に進んだ。
吉岡先生は練習終わりなど不意のタイミングで、いわゆるイイ話をしてくれることがあったという。
「男なら、二兎を追って二兎を得ようぜ」
昨今では微妙な表現となったが、のちに女子ラグビー部も立ち上げた吉岡先生のこと。相手がかわいい教え子ならば男でも女でも訴えかける内容は変わらない。より、目の前の人間に響く言葉が浮かんだだけだ。
「俺たち、ラグビーマシンじゃねんだ。友達と遊んだり、彼女作ったりさ。いい男になってほしいよ」
そのような余裕は与えられていないように感じなくもなかったが、当時は山と林に囲まれた泥のグラウンドは、決して閉じた世界ではなかった。それでいて教え子たちはOBになると、吉岡先生を愛を込め親父と呼んだ(直接は言わない)。これは半分、先生自身が生徒たちにすすめていることだ。
「ラグビー部は家族だ」
折に触れてそう伝えた。みんなラグビー部の子、だから俺は親父だと。
本を書け、と息子たちに言ったこともある。当時の校長が生徒に読書を盛んにすすめた。吉岡先生はそれを受けて「本は大切だ」と言って、つけ加えた。
「読むのもいいけど、お前たちには、本を書ける人になってほしいよ」
もし悩みがあったら、どんな人に相談するか。順風満帆、真っ直ぐ駆け上がってきた奴も悪くない。でもそばに、修羅場を幾つもくぐり抜けて、理不尽にも涼しい顔で堪え一歩一歩進んでいる奴がいたら、こっちに話を聞いてほしいなと思うんじゃないか。人としての経験を積んでいて、伝える術より伝える中身のある奴。そんな人に、なってほしいよ。
ワタル少年はその後、1年から連続で花園の舞台を踏み、3年時には母校初の高校日本代表選手になった。身長171㌢のNO8は、法政大学に進学、社会人選手としてクボタに勤め、プロップにチャレンジ、途中2年は下部リーグも経験しつつ、10シーズンにわたってプレーした。現役引退後の今はチーム広報が仕事だ。
リーグワンで好調のクボタスピアーズを支えるスタッフ、岩爪航広報はいまでも、母・惠子さんの決断と頑なさを不思議に思いつつ、感謝しているという。その末に選び取ったラグビーの道で、今でも大切に思える出会いが続いている。
「そういえば、ウチのフラン・ルディケ ヘッドコーチも、『吉岡肇』と似たところがあります。心に火をつける」
選手にどうすべきかを伝えるのではなく、どうしたいのかを、強く思い起こさせる。
国栃が決勝にたどり着いた一つのターニングポイントに、白石和輝主将の振る舞いがある。吉岡先生いわく、全国大会初戦開始13分のケガで舞台を降りた大黒柱、その本人が「悲劇の主人公に陥らなかった」。むしろ前よりも声を出してチームを鼓舞した。人の書いたストーリーに乗らないで、自分の物語を描いたのだろう。
準優勝は空から降ってきたわけでなかった。吉岡肇の教えは特異でもない。師の教え子、ラグビーの息子、娘たちは、その泥のグラウンドから旅立って、それぞれの世界で物語を編んでいる。
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