コラム 2021.11.12

【ラグリパWest】赤い旋風。田村誠 [トヨタ自動車/豊田自動織機元監督]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】赤い旋風。田村誠 [トヨタ自動車/豊田自動織機元監督]
帝京大時代は主将としてチームを初の大学選手権に導いた。9連覇に至る礎を築く。トヨタ自動車や豊田自動織機では監督もつとめた。キヤノンのスタンドオフの優さん、サントリーのセンターの熙さんは息子である。



 優と熙の父である。
 田村誠。
 日本代表の長男はとりわけその名を響かせているが、帝京OBのこの父もまたラグビー界において歴史を作った。

 母校は(2009年度から)大学選手権9連覇。11月3日には早稲田を29−22で降し、対抗戦5連勝とする。4大会ぶりの学生日本一に向け、前進した。

 その帝京の初の大学選手権出場は1983年。父は38年前、主将、そしてセンターとしてチームの中心にいた。

「勝ちたい思いが強かったですね。ひとつ上の学年も強かったけれど、選手権に出られなかった。そんな思いも背負ってやりました」

 分岐点は早稲田戦。父は23−19で初勝利する。10月30日。完全アウエーの東京は東伏見。赤黒の本拠地はまだ上井草ではない。帝京の創部は1970年(昭和45)。8年後に対抗戦に加盟。ここまで5連敗。前年、1982年は17−34だった。

「すごい人でした。西武の東伏見の駅は人でいっぱい。グラウンドは立ち見の列が何重にも取り巻いて、外が見えませんでした」

 早稲田は日本代表だったフルバックの安田真人(まひと)が欠場していた不利もあった。
「ウエールズ遠征で顎を骨折したはずです」
 この試合の8日前、日本代表はカーディフでのテストマッチに臨み、24−29と善戦する。

 帝京はメンバーが集まる。父をセンターに下げた渡部監祥がスタンドオフ。司令塔は2枚になる。快速ウイングの鬼沢淳もいた。
「ヘッドダッシュだけで1時間。よく練習しましたもん」
 蹴られたボールを数人でつなぎ、ゴールラインを駆け抜ける練習を延々とこなした。揃いだした才能に磨きがかかる。

 監督は水上茂。早稲田OBである。
「増村先生が早稲田の人たちと仲が良かったようでした」
 増村昭策は名誉顧問。監督や部長も経験する。1996年、滋賀・八幡工の監督である岩出雅之を監督に招く。日体大の後輩だった。

 父はその早稲田からの勝利を評する。
「恩返しですよね」
 初期の帝京はラグビー先進校だった早稲田に助力を仰いだ。監督をつとめ、日本ラグビー協会の専務理事になる白井善三郎や梅井良治らの名前が挙がる。

 当時の対抗戦は総当たり戦ではない。定期戦が優先され、新興校が試合を組んでもらうには承認が必要だった。帝京と慶應の対戦は1996年までない。翌年、対抗戦がAとBの二部制になり、総当たり戦が実施される。

「当時は早明、そして日体のどれかに勝たないと大学選手権には出られませんでした。慶應との試合はなかったわけですから」

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