読谷高校はセンバツ初出場!石嶺傳實[読谷村長]は沖縄ラグビーを黎明期から支える。
センバツがついに始まった。
沖縄県の読谷高校は、実行委員会の推薦枠で創部初の全国大会初出場を決める。
3月25日は茗溪学園に0―64と完敗を喫したが、今年は敗者戦がある。26日、同じく初出場の佐沼と激突する。
読谷高校は1971年創部。今年がちょうど50周年にあたる。
◆読谷高校の九州大会の活躍はこちら
読谷村の村長である石嶺傳實(いしみね・でんじつ)さんは、文字通り頬を緩める。
「(創部50周年の)記念すべき年に全国選抜大会に出場するということで、現役の皆さんが頑張ってることを非常に嬉しく思います」
石嶺さんも高校、大学(琉球大)、社会人とラグビーに親しんだ。32歳までシーサークラブで現役を続け、その前後で沖縄ラグビーの発展のためにレフリーもやった。現在も読谷村長を務める傍ら、沖縄県ラグビー協会の顧問として沖縄ラグビーを支えている。
石嶺さんは読谷高校ラグビー部の3期生。部の始まりを知っている。同好会からのスタートだった。
「私が入学する前の年(1970年)に、1期生と2期生が同好会を作りました。私が入学したときになって正式に部として認められました」
当時の監督は沖縄ラグビーの礎を築いた安座間良勝先生。読谷→石川→コザ→宜野座と転任する先々でラグビー部を強くした名将だ。安座間先生と出会って、高校から始めたラグビーを好きになれた。
「当時のスポーツは厳しい指導のイメージがあったけど、僕らはとにかく褒められて、褒められて。とにかく『OK!』、『最高!』、『いってこい!』って褒め殺し(笑)。いつも楽しく乗せられてました」
“乗せられた”結果、入部して2か月たらずで鹿児島で開催された九州大会にも出場した。1971年の6月だから当時の沖縄県は本土復帰前。沖縄県の高校、大学、社会人チーム含めて、初の県外遠征、県外試合だった。そのときの記憶は今でも鮮明に覚えている。
「パスポートを持って、予防注射をしてから船で鹿児島に行きました。沖縄の通貨はドルでしたから、向こうで初めて1000円札を見たときにやけに大きいなと(笑)」