読谷高校はセンバツ初出場!石嶺傳實[読谷村長]は沖縄ラグビーを黎明期から支える。
ラグビーの方は完敗だった。「入ったばかりの素人が試合に出られるんですから(笑)。いかにレベルが低かったか」。2試合対戦。1回戦は福岡高校に0―66で負けた。敗者戦の高鍋との試合も0―32だった。
「2試合とも出ましたが、ボールを触ったのは敗者戦の1回だけ。相手が蹴り込んだボールをインゴールで抑えただけです(笑)」
福岡高校はこの年の冬、花園に出場してベスト4に入った。3年生には、のちの明大の主将になる西妻多喜男、早大で主将、監督を務めた豊山京一と南川洋一郎がいた。ともに元日本代表だ。そんなチームと対戦できたことは「マンガみたいな話ですよね」と笑う。ラグビーが作ってくれたいい思い出だ。
楕円球はたくさんの仲間も与えてくれた。
沖縄は決してラグビーが盛んだったわけではない。ラグビー部があったのは読谷、コザ、中部工業(美来工科)、豊見城の4つだけだった。4校は練習試合をするなどよく交流した。
1973年に開かれた沖縄特別国体(若夏国体)でも彼らとともに国体の選抜メンバーとして出場した(対戦相手は福岡、兵庫、秋田)。今でも交流が続く仲間になった。
「国体を機に沖縄のラグビーが発展していきました」
読谷村は特にラグビー熱が高い。夏には毎年、字(あざ)対抗と呼ばれる自治体対抗のスポーツ大会が開かれる。競技種目の中にラグビーもある。大学生、社会人が未経験者も引っ張って毎年5~8のチームが作られ、予選・決勝と2週にまたがって争う。読谷村では当たり前となった夏の風物詩だ。
そんなスポーツ好きの読谷村は、長年さまざまなスポーツチームを合宿(キャンプ)に誘致してきた。リゾートホテルに加え、スポーツ施設が充実している。
読谷は1972年の本土復帰時、軍用地が約74㌫を占めていたが、いまは約33㌫になった。徐々に返還されたこの土地(元は飛行場)に村役場が立ち、読谷中が移転され、陸上競技場、野球場、ソフトボール場とスポーツ施設も新たに建設された。まだまだ未開拓な土地も多く、今後は図書館や室内ドームの建設を視野に入れる。