その他 2020.10.29

「ラグビーの本能」で戦った。総合格闘家・長倉立尚のこれから。

[ 編集部 ]
「ラグビーの本能」で戦った。総合格闘家・長倉立尚のこれから。
1984年6月22日生まれの36歳。

 本格的にラグビーシーズンが始まった9月。総合格闘家・長倉立尚(ながくら・たつなお)は、36歳で引退を決めた。

 大学卒業後すぐにラグビーマンから転身。一対一の世界に入ってからも変わらず「あんなに素晴らしいスポーツはない」と心からラグビーを愛した。啓光学園(現・常翔啓光学園)で花園を制した経歴に恥じない、誰にも真似できなかった12年間。リングの上で自己表現を続けた。

 プロとしての最終戦績は14勝8敗。
 2度のタイトル戦に敗れ、決して飛び抜けた実績ではない。それでも、鮮烈なファイティングスタイルには誰もが目を奪われた。
 常に強打で決着をつけた。寝技でも負ける気はしなかったが、一本での勝敗が一度もなかった。20戦以上でこの結果はかなり稀だという。

「すぐ起きて、立って戦ってしまう。ラグビーの本能なんでしょうね」
 そう振り返る顔が、誇らしげだった。

 大阪・長吉西中学で楕円球に出会った。家族でスポーツに長けた人はいなかったが、姉と兄を持つ末っ子で、負けん気は強かったと思う。府下では名の知れた選手だった。

 ポジションはフランカー。啓光学園高では2、3年時に全国高校大会優勝。大型FWの立命館大でも2年からレギュラーになった。気性の激しさもあって、高校ラグビー界でも関西大学リーグでも常に恐れられた。

「体が小さい。その思いはめちゃくちゃありました。でも負けへんぞって。自分は間違っていないって証明したくて。上にも食ってかかって、チームでは扱いにくかったと思いますよ」
 そう自己分析し、苦笑いする。

 170センチ、75キロが限界値。サイズには恵まれなかったが、WTBでも起用されるほどスピードがあった。低く速いプレーが持ち味で、力負けしない。ボールハンターとして、タックラーとして抜群の存在感だった。

「コンペティションが好きなんでしょう。勝敗が分かりやすいものが。たくさん選手がいる中で、チームのフランカーで最高の二人にまで勝ち抜きたかった」

 大学を卒業後はラグビーと関係のない企業に就職したが1か月で退職。やはり勝負への熱は冷めず、もともと興味があった格闘技の道に進もうと決めてからは早かった。

 高校時代の恩師の記虎敏和監督のツテを頼り、親にも知らせずに上京した。吉田道場(五輪柔道金メダリスト、吉田秀彦氏が設立)に「一般会員」で登録したのがスタート。高校日本一の元ラグビーマンの経歴への注目とともに、ファイターを作り上げる苛烈な鍛錬を積んだ。2008年のデビューから8戦連続KO勝利。その重圧を楽しむタイプだった。フェザー級で名をあげていった。

 自ら発案した試合前の「ハカ」のパフォーマンスでも話題を呼んだ。大学時代の仲間を最多で10人も誘い、熱気渦巻く会場をウォークライでさらに盛り上げた。

 「色んな所でしましたよ。後楽園ホールはもちろん、さいたまスーパーアリーナも。日本武道館でハカをやったのは自分だけじゃないですかね」

 長倉のリングインは格闘家達にも受け、オールブラックスの動画を見漁った同僚も。自分を通じて多くの人にラグビーにも興味を持ってもらえたのは喜びだった。

 準備の都合で止めていた期間もあったハカは、ワールドカップの熱気冷めやらぬ昨年末に再開。そこから2戦目の9月20日。後楽園ホールでのDEEPライト級元王者・中村大介との3回戦が、自身のラストマッチになった。

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