【2011東日本大震災・現地ルポ】 1年B組より、願う。(ラグマガ再掲)

瓦礫の山。潮と泥とヘドロの混ざったにおい。その脇を歩いていると、足もとの泥の下にまだ誰かがいるような気がした――。
東日本大震災が起きた2011年3月11日。地震と大津波の発生から約2週間後、青山学院大のラグビー部員がボランティア活動のため、岩手・陸前高田市を訪れた。東京から緊急車両に認定された車両で、医師や看護師など、被災者の心のケアをする担当者を搬送。現地でも避難所から病院、被災者宅へ、津波で壊滅した街の道なき道に車を走らせた。
避難所となっていた高田一中の1年B組で過ごした数日間。教室の一角に『心の相談室』が設けられた空間にいると、被災地の人たちの心の傷の深さを感じ取ることがあった。当時彼らが感じたことは、長く、多くの人々にも忘れないでほしいことだった。2011年4月に発売されたラグビーマガジン(6月号)の記事を、ここに再掲します。
1年B組より、願う。
青山学院大学ラグビー部部員、被災地・陸前高田[岩手]へ。
雪が舞っていた。寒風が肌を刺した。3月下旬、岩手県陸前高田市。ただ、抱きしめてあげることしかできなかった――。
青山学院大学ラグビー部の三原壮太郎と明本貴信は、同市最大の避難所、千人を超える被災者が身を寄せている高田第一中の体育館にいた。トランプをしている途中、饒舌だった少年が急に黙った。ふたりは、どうしていいか戸惑った。気に障ることでも言ったかな、と。
「遠慮しなくていいんだよ。ハナシ、なんでも聞くよ」と言った三原に、小学校6年生のカズキは、「おじいちゃんと将棋をして遊んでいたことを思い出して…」とこぼした。
涙をこらえる少年を三原は抱きしめた。泣きそうになっている自分の顔を、見せてはならないと思ったからだ。一緒に泣いたら、少年の寂しさも、その光景を見た周囲の人たちの悲しみももっと深くなってしまうから。
岩手県陸前高田市。同県で最多の死者・不明者を出した地域を3月下旬、青山学院大学ラグビー部の部員たちが訪れた。東京都が被災地に派遣する『こころのケアチーム』(精神科医師、保健師、看護師など計4名で1チーム)の活動にボランティアとして参加したからだ。NPO法人日本災害医療支援機構関係者にラグビーマンがいたことで縁が出来た。
おもな活動内容は、車両を運転して『こころのケアチーム』を東京から被災地まで運ぶことと、現地のベースキャンプから各避難所などに運ぶこと。被災者の中には大きな不安を抱え、精神的なケアを必要とする方は少なくない。3月23日から4月10日までの間に、ラグビー部内で手を挙げた9人のうちCTB阿部兼利(4年)、LO佐竹哲実(2年)、第2陣=SH三原壮太郎(4年)、CTB明本貴信(3年)、WTB中村駿佑(3年)、FL小澤笙竣(3年)の6人が、ケアチームの一員として現地に入った。
三原と明本の第2陣は、3月26日の朝に東京を出発し、その日の夜、陸前高田に入った。全国各地から派遣されたケアチームの詰め所となった1年B組の教室で、第1陣として先に現地に乗り込んでいた阿部、佐竹の姿を見つけた。普段なら互いに駆け寄り、近況を報告するだろう。しかし、阿部と佐竹はチラッとこっちを見ただけで、任務を続けた。
「すっかりチームの一員の顔になっていて、最初、(本人たちがどこにいるか)分からなかったくらいです。そして、浮わついたところのないあの姿勢。ここで感じることの重さが分かったような気がしました」(三原/明本)
仙台三高出身の佐竹は、実家や家族に被害はなかったが、女川に住んでいた友を失い、友人の中には祖父を亡くした者もいた。地元の宮城はお隣りということもあり、岩手は何度も訪れたことがある。テレビの画面に映し出される映像を見て、無惨に様変わりした光景が悲しかった。だから、いてもたってもいられなくなった。ラグビー部に届いたボランティアの呼びかけに迷わず志願した。
車両の運転の他に、届けられた救援物資の仕分けなどにも参加した佐竹は、ケアチームの方から聞いた言葉が忘れられない。
「ここに足りないのは、思い切り泣ける場所なの」
プライバシーなどなく、大勢が体育館の床で暮らしている。生きているだけで有り難いのだけど、家族や友を津波で失い、悲しくて、泣いたら少しは楽になれるかもしれないのに、まわりのみんなも同じなのだから…と自らを奮い立たせ、元気に振る舞う被災者の人たち。そんな気持ちが、避難所内に活気すら生んでいることに驚いた。
「でも、ずっと我慢し続けている皆さんのことを考えると…。もっと先のことが心配で」
阿部の祖父母は、父方も母方も津波の被害に遭った宮城県・石巻の出身だ。今回の地震後も、父方の祖父と連絡が取れず不安な時間を過ごした。祖父は避難所に行っていた。時間が経って無事を確認できた。阿部にとって被災地は、遠い場所での出来事ではなかった。
報道では伝わらないことを、自分の目、耳、そして肌で感じた。被災者の声をじかに聞き、なんとかしなければと思った。
「高齢者の方は、そのほとんどが何か薬を飲んでいらっしゃるのに、その薬を入手できない状況が続いているんです」
全国各地から医療チームが集まり、非常事態の中で連携を取りながら、任務を進める姿を見てあらためて気づいたこともあった。コミュニケーションの大切さだ。
「本当に必要なことを伝えあい、共有することで、ものごとがつながり、解決していく。コミュニケーションって、仲のよさや、つき合った時間じゃない。そこを認識しました」
◆僅かな間だけでもいいから現実を忘れさせてあげる。
それだけでもいい。
誰にでも、やれることは何かある。
阿部、佐竹組と1日だけ重なった三原と明本も、しっかりと二人の意志と任務を受け継いだ。
神奈川県出身も、高校時代を仙台育英で過ごした明本は、思い出の詰まった仙台の街がズタズタになってショックを受けた。2年時まで毎日駆けたグラウンドがあった松島のあたりも、津波により壊滅状態に。ボランティア募集に、すぐ手を挙げた。
車両運転とともに、避難所の子どもたちと触れ合う機会もあった明本は、三原とともに、冒頭の少年と何度も話し、遊んだ。
周りに大人がいないことは薄々感じていた。ケアチームの方に聞くと、祖父母、父親と暮らしていた少年は、祖父と父を津波で失ったという。カズキは、「数日後には神奈川の親類の家に行き、そこで暮らすことになった」と言っていた。
明本は三原と、カズキに「お兄ちゃんたちのラグビーのグラウンドも神奈川(相模原)にあるから連絡してくれよ」と電話番号を渡した。「ラグビー、やろうよ」と言うと、「こわいからヤダ」と答えが返ってきたと苦笑した。
三原が隣町の大船渡の病院にドクターを搬送している間も、一人で少年と触れあった明本は言った。
「好きなゲームのことを話してあげる。遊んであげる。辛い思いを少しの間だけ忘れさせてあげることしかできないけど、自分にだってできることがあった。ここに来てみないと分からなかった。同じようにこの先だって、自分が役立てることはいろんな状況の中にあると思います。それを探していきたいですね」
今回のボランティア活動で、いつもリーダー的に発言してきた三原は、阿部、佐竹、明本と違い、これまで東北とは縁の薄い人生を歩んできた。そんな若者が今回強く志願したのは、人生で初めて経験した生死を意識する地震を経験したことと、映像で伝わる被災地の様子に衝撃を受けたからだ。
「ただ、テレビを見ていたら、どこか遠い国で起きたことのような気がしている自分がいて…。実際に行かないと、何が出来るのか、何をしなければいけないのか分からないと思った」
都内で様々な物資を買い占めに走る大人たちの姿を見て、憤りを感じた。いても立ってもいられなくなった。
昨季はルーキー香山に9番を譲り、自身はおもに後半から出場、タックルでリズムを作った三原。普段から正義感あふれる男で、最終学年の今季はリーダーも務める。本来ボランティアへの出発の日は、首脳陣とリーダーたちの間でミーティングが行われるはずだった。最終学年、レギュラー奪取を懸けた大事な1年のスタートであることに加え就職活動もあったけれど、三原は湧き上がった気持ちを抑えられなかった。
仲間に相談すると、「他にも志願者はいるんだから、なにもリーダーのお前が行かなくても」という意見もあった。
そんな状況で背中を押してくれたのが、武居健作監督だった。ミーティングは、三原が戻った後、あらためて開くことにした。今しかできないことをやってこい、と。
「危険をともなう被災地に部員を送るのは、最初は迷っていたんです。でもNPOの方たちの説明会の時、手を挙げた部員たちの表情、考えに触れて…私の方こそ、背中を押してもらったんですよ。『行ってこいよ』と言う決心が、そのときにつきました」(武居監督)
三原は、避難所の中学校内のあちこちに、『一人はみんなのために! みんなは一人のために! 共に支え合っていきましょう』と書いてある張り紙があるのを見つけた。『One for all, All for one』と書いてあるものもあった。
「ラグビーの世界で、いつもみんなが口にしている言葉。この場所で、この言葉を見て、本当に意味することが理解できた気がしました」
そして明本とともに、自分たちの思いを紙に書き、避難所の壁に数枚貼って、東京に戻った。『One for all, All for one』の言葉とともに、次のように書いた。
『仲間を信じ 自分を信じ 困難に立ち向かった時 その先には勝利と笑顔がある 共に乗り越えていきましょう 青山学院大学ラグビー部一同』
◆本当の思いを吐露できない子たち。
ビルや家が建っても、心の傷が治ったかどうかなんて
誰にも、本人にすら分からない。
だからみんなも、いまの気持ちを忘れちゃだめだ。
陸前高田の海辺に立つと穏やかな海が、そしらぬ顔で水面を光らせていた。山側を振り返れば、あらゆるものが根こそぎもぎ取られ、破壊された瓦礫の山が延々と続いている。まだ捜索すら手つかずの場所を歩く。この泥の下にも亡骸が埋まっているかもしれないと思ったら、足が出なくなった。
それでも、長い時間はかかるけれど、街にはやがてビルや家が建ち、経済も文化も生活も、復興へと向かうだろう。ただ、被災者の心の傷だけは、薄れかけてはまた疼き出すような歳月をくり返す。だから願うのだ。いま誰の心にもある被災地への思いが風化せぬことを。
4月9日、青山学院大・淵野辺グラウンド。この日の練習後、同部は4人によるボランティア活動の報告会を開いた。クラブハウスの一室に入った部員たちは、現地組の表情を真剣な眼差しで見つめた。発せられる言葉から、被災地の人たちの思いや苦しみを感じ取った。
明本は、瓦礫の山と化した街の道なき道をドライバーとして車を走らせたことや、半壊の家の持ち主が、『この家を壊さないで』と壁に書いていたことに、「一瞬にしてすべてを奪われた被災者の悲しみを感じた」と伝えた。
佐竹は、親を亡くした何人もの子どもたちが、『人に心配をかけたくないから構わないで』と言っている現地の様子を語った。阿部は「いま誰もが思っている被災地への気持ちを忘れてはいけない」と訴えた。
とりまとめ役だった三原は、みんなに呼びかけた。
「みんなノートを持って、思ったことを書き留めて。何でもいいから、いま感じたこと、サポートしていきたいと思った気持ちを1行でもいいから書いて。いまそうしておかないと、忘れてしまうときが来るから」
震災から2週間後の写真。多くの犠牲者が出た