コラム 2025.12.08

【ラグリパWest】初の黒黄入りへ。平田シャニョン武郎 [目黒学院高校/ラグビー部/LO]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】初の黒黄入りへ。平田シャニョン武郎 [目黒学院高校/ラグビー部/LO]
目黒学院ラグビー部でLOをつとめる平田シャニョン武郎(左)は部史上初めて慶應義塾大学にAO入試で合格した。入学後もラグビーを続ける。「よく頑張りました」と竹内圭介監督はほめあげた。目黒学院は年末年始の105回全国高校大会に出場。同校6回目、歴代4位の優勝を目指す。

 まず勉強で達成感を得た。

 平田シャニョン武郎(たけお)は先月、慶應のAO入試にうかった。春から文系の総合政策学部で学ぶことになる。
「率直にうれしいです」
 長円の目は喜びで直線になる。眉は太く、口は大きい。男子の魅力があふれる。

 その慶應合格は、目黒学院のラグビー部では初めてのことになった。監督の竹内圭介は30下の教え子を尊敬する。
「大した男です。日に日にやせていきながら、めちゃくちゃ勉強していました」
 竹内は48歳。情報科の教員でもある。

 平田シャニョンはその勉強を語る。
「毎日、最低2時間はやりました」
 練習や試合が終わってから励んだ。総合政策学部を選んだ理由がある。
「自由に分野を選べ、研究できます」
 学部としての面白さにひかれた。

 二次試験は教授との3対1の面接だった。その材料になった選考書類を説明する。
「安全保障のNarrative(ナラティブ)です」
 南京大虐殺とウクライナ戦争に焦点を絞る。ナラティブは主観が入る。そこには調査、経験、解釈などが加わる。出来事を並べたStory(ストーリー)とは違う。難しい。

 一次試験は免除された。フランス語検定の最上である1級、しかもその中でも成績優秀者に与えられる大使館賞を受けていた。この1級は高度な専門性を問われ、合格率は10パーセントほど。英検の準1級も持っている。

 フランス語は父方の母国語だ。母は日本人。生まれたのはフランスだった。7歳で来日。都内にある東京国際フランス学園に通った。ただ、いくら父親がフランス人であっても、検定1級を10代で取るのは至難の業。向学心、そして本人の努力がしのばれる。

 慶應入学後もラグビーは続ける。監督の青貫浩之にも受験前に会った。
「竹内先生に間に入ってもらっています」
 慶應の創部は1899年(明治34)。日本ラグビーのルーツ校である。その段柄ジャージーは黒黄(こっこう)と呼ばれている。

 競技を始めたのは来日した7歳からだった。みなとラグビースクールに入った。父や祖父がやっていた。来日前、6か国対抗のフランス×アイルランドをパリで見たこともある。

 目黒学院に進んだ理由もラグビーだ。
「U15の東京のスクール選抜に入りました。それで高校でやりたくなったのです」
 目黒学院は各種学校扱いの東京国際フランス学園にも門戸を開いていた。その入学のため、平田シャニョンは中学校卒業程度認定試験に続き、一般入試を受けている。

 目黒学院に入ったころはWTBだったが、183センチ、80キロになった体格を買われ、今はLOを任されている。目標にする選手はFLだったティエリー・デュソトワールだ。フランス代表としてのキャップは80を誇る。

 デュソトワールの凄味を話す。
「2007年のW杯のニュージーランド戦ではタックルを38回も成功させています」
 フランスは20-18で勝利し、最終的には4位に入る。攻撃ではなく、守備面を最初に持ってくるところにしぶさが漂う。

 その平田シャニョンが慶應合格を勝ち取ったことで、目黒学院はこの国を代表する私大「早慶」にラグビー部員を送り込むことになる。早稲田の創部は1918年(大正7)。大学選手権の優勝は最多の16回ある。

 先駆者は東郷健二。1971年(昭和46)の春に社会科学部を出ていると資料には残っている。当時の校名は「目黒」。能文家と名解説者を併せ持つ藤島大によると東郷はWTBとして3年時から公式戦に出場した。4年時の韓国遠征にも参加している。藤島は東郷の早稲田ラグビーの後輩にあたる。

 東郷は3年時に陸上からラグビーに転向した。竹内からのメールがある。
<梅木先生は運動能力の高い生徒にラグビーをさせたりしていました>
 梅木恒明の網にかかる。監督で保健・体育の教員だった梅木はこの目黒を全国優勝5回、準優勝5回の強豪に仕立て上げた。

 それ以前、目黒はラグビーより陸上が有名だった。代表格は飯島秀雄。1964年、100メートルで10秒1の日本記録を打ち立てる。飯島はその快足でプロ野球にも行った。「世界の盗塁王」と呼ばれた福本豊でさえその速さに目をむいたと言われている。

 目黒のラグビー部の創部は1959年。2年後、梅木が赴任する。東郷のように才能を見抜く目と朝5時から始まる猛練習が混ざり合い、47回全国大会では初出場準優勝する。決勝は福岡電波に5-11。現在の福工大城東である。大会開催は1968年の1月。東郷が早稲田で2年に進級する時期だった。

 その栄光の時代を取り戻さんとこのエンジのジャージーは奮闘している。目黒学院は先月9日、24回目の全国大会出場を決める。105回大会の東京都予選決勝で東京朝高を58-5で破った。6大会連続の出場は93回大会以降では都最長になる。

 その大会を見据え、目黒学院は先月の21日から3連休を利用して、三泊四日で関西遠征を実施した。東海大大阪仰星と試合をした。
「トライ数2対3で負けました。お互いあまり細かい指示はしませんでした」
 まだ仕上げの段階ではない。関西大のグラウンドでも練習した。今春、竣工した。

 チームの軸はトンガ人留学生だ。NO8のロケティ・ブルース・ネオルとFLラトゥ・カヴェインガ・フォラウ。LOの平田シャニョンはFWとしてこの同級生2人に続く。
「目標は日本一です」
 ためらいなくこの言葉が出て来た。

 頂点に駆け上がれば、59回大会(1979年度)以来6回目の優勝となる。それは歴代4位の記録になる。慶應合格の勢いそのままに、平田シャニョンはラグビーでも達成感を得たい。それができれば、長い人生において間違いなく最良の1年になる。

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