【ブライトンの記憶vol.3】稲垣啓太―あのとき、世界で勝つ意味を知った
ラグビー日本代表戦 4週連続WOWOWで!
11/2(日)午前0:45「日本vs南アフリカ」生中継
2015年9月19日、イングランド・ブライトン。世界を驚かせた日本代表の歴史的勝利から10年。後半17分からルースヘッドプロップとして出場した稲垣啓太に、当時の戦いの日々を振り返ったもらった。(文/田村一博)
あの日の試合中も、
みんな、相手に対し向かっていった。
いろんなことを叫んでいました
ブライトンで34ー32と南アフリカを倒してから10年。そんな節目の今年、「あのカードをもう一度」という声が、どこからか聞こえていた。
それが現実のものになると発表されたのが8月20日。2025年11月1日、ロンドンのウェンブリースタジアムにて、赤白とダークグリーンのジャージーが対峙する。
そのニュースを聞いた時、埼玉パナソニックワイルドナイツのプロップ、稲垣啓太は、「やりてえな」と反射的に思った。
リーグワンの2024-25シーズン終了後、痛んだ体のメンテナンスを念入りにおこなった。2013年のワイルドナイツ入団以来、日本代表での活動も含め、休みなく戦い続けてきたから蓄積した疲労もあった。
そんな状態だから、新シーズンへ向けての準備を重ねるいま、「チームの練習には戻れていますが、まだ試合どうのこうのという状況ではありません。だから、やりたいとか言ってはダメなのでしょうが、本能的に、そう思いました」
同じレベルの相手との背比べより、自分よりはるかに強い相手と戦ったときに得られる経験値以上に成長の糧となるものはないと知っている。だからこその、「やりてえな」だった。
2015年9月19日の南アフリカ戦、稲垣は後半17分からピッチに立った。当時25歳で、日本代表キャップは、まだ6しかなかった。
ベンチスタートのとき、稲垣はあまり戦況を見ない。集中してピッチ上の攻防を見続けると、出場前に疲れてしまう感覚があるからだ。だから出場予定の10分前ぐらいから試合を見て、戦況をつかみ、自分が出場したときにやるべきことを整理してから試合の中に入っていく。
あの日もそうだった。
戦況を凝視していなかったが、ベンチにいた選手たちの会話から、自分たちが十分戦えていることは伝わってきていた。出番が迫り、自分の目で見ても確かにそうだと分かった。
「試合に出たらセットプレーをしっかりやって、ブレイクダウンでいいボールを出すことに集中しようと自分の中で確認し、ピッチに出ました」
すぐにマイボールラインアウトがあり、その後ボールを追った。相手とのコンタクトを体感する。
「あの日の南アフリカは、僕らが思っていた以上のものではなかったんです。練習でやってきたことの方がハードだと、すぐに感じました」
19ー22だったスコアは五郎丸歩のPGで22ー22となり(後半19分)、その後、再び22ー29に(同21分)。しかし、28分にラインアウトからのサインプレーでトライを挙げて29ー29と追いつく。32分にはPGで加点されて29ー32。3点差で試合最終盤に入った。
「プロップがボールを持つようなアタックプランではなかったので、あの試合でもボールを持たなかった。持ったのは1回だけのはずです」
事実、23分間のプレータイム中、ボールに触れたのは一度だけ。ブレイクダウン周辺にこぼれたボールをセービング気味に確保して、すぐに味方につないだ時だけだった。
3度のマイボールラインアウトでは精度高くリフティングし、全て確保。タックル、そしてブレイクダウンに何度も頭を突っ込んだ。
スクラムでは、最初に組んだ時から「いける」感覚を得た。「前半に押される時間帯もありましたが、畠山さん(右PR/健介)が脳震盪気味で、その影響があっただけでした」。
後半35分過ぎの相手ボールスクラムも押した。だから、39分過ぎから始まった南アフリカ陣ゴール前でのスクラムタイムの時、相手は相当なプレッシャーを感じていたはずだ。「相手プロップの顔を見たら、もう二度とロンドンには来たくないって表情でした」とジョークを飛ばす。
歓喜のシーンは、日本代表がキックカウンターから攻めて相手トライラインに迫り(19フェーズ!)、そこで得たPKと、その後のラインアウトの先にあった。
モールで攻めた日本に対し、南アフリカも踏ん張りグラウンディングさせない。結果、日本ボールのスクラムで試合再開。そこで赤白のジャージーは押し込み、PKを得た。
「誰かが何かを言って、どう決まったというのは覚えていませんが、当然スクラム、の空気がありました。僕も木津さん(HO/武士)、ヤンブーさん(右PR/山下裕史)も、すぐにバインドする準備をしましたから」
2回の組み直しの際は右に流れたが、悪い感触はなかった。そして3回目、相手はイリーガルに組んできてスクラムが乱れ、球出しが不安定になる。「なんとかさばいてくれ」と組み合ったまま祈った。
SH日和佐篤は苦しみながらも無事にパスアウト。カーン・ヘスケスが左隅に逆転トライを決めたのは7フェーズ目。稲垣はそのうち2つのブレイクダウンに参加し、歓喜のシーンは、ボールを追いながらゴールポストの左前で見ていた。
同点PGを狙う選択肢もあったPK機に「スクラムから攻める」としたチームの判断について稲垣は、「日本代表なんだから、代表らしい選択をしないといけないと思います。あそこで引き分けを狙うことが、見ている人にとってかっこいいな、とはならない」ときっぱり言う。
「あのときのチームには、オトコがたくさんいました」
「漢」と書くのが正しいだろう。スタッフも選手もそうだ。その誰もが、自分たちが最高の結果を残すため、チーム内でも、相手とも戦っていた。
「あの日の試合中も、みんな、相手に対し向かっていった。いろんなことを叫んでいました」
選手もコーチも戦っていた
『BEAT THE BOKS』を掲げての準備期間、チーム内でも様々な戦いがあった。例えばあの試合の1週間前、稲垣はジョーンズHCに「試合に使わない」と言われた。「お前のプレーには感情がこもっていないから」が理由だった。稲垣はそれに対し、「俺、感情を込めてプレーしていないですから」と答えた。
野球少年だった。憧れは松井秀喜(巨人→ヤンキース)。どんなに活躍しても表情を変えず、淡々とプレーする姿がかっこよかった。自分もそうしようと決めた。表情を変えていたら、相手にこちらの胸の内を読まれることだってある。「闘志は内側に秘めて、プレーしています」。
指揮官になんと言われようと、スタイルを変えるつもりはなかった。
日本代表にはW杯前年の2014年の秋から加わった。「エディーさんは、最初から僕には厳しく言ってきました。人を見分けるんです。若手、特に何を言ってもいい、叩いても前に出てくるタイプにはハードな言葉を投げてきます」。
最初に言われたのは、「お前のタックルはフランカーみたいで、クォリティーも高く、相手を止めることも、リロードする回数も多い。一見完璧なように感じるけど、そのタックルは世界では通用しない」という内容だった。「そのときは理解できない、と言い返しました」。
しかし、実際にインターナショナルの舞台に立って戦った時、「確かに日本では得られない感覚があったんです。国内では食い込まれないのに、少し前に出られる。なので後日、エディーさんに話がある、と時間を作ってもらい、その感覚を言っていたのか、と。そうだ、と返ってきました。当時は、そういうふうに、自分から話す時間を作ってほしいと申し出る選手が他にもいたはずです」
宮崎合宿中、当時の女性通訳、松平貴子さんが、怒るHCの言葉を、「訳さなくても伝わるのに、『稲垣さん、消えてください』って丁寧に言ってくれたことも覚えています。それで、『消えろ』、『消えない』の押し問答が続きました。でも、消えないと練習が再開しないので、僕とヘンディ(ツイ ヘンドリック)がグラウンドを去ったこともありました」
練習後、しばらくして「何時に部屋に来い、と連絡が入るんです。エディーさんはみんなの前では厳しいのに、1対1になると優しい。アメとムチと言うとありきたりですが、そういうところが上手でした」
2015年W杯の前にコンディションがなかなか整わず、稲垣は開幕直前にブリストルでおこなわれたジョージア代表とのウォームアップゲームにも出ていない。しかし、同地では個別テストがあったそうだ。
「ブリストルのグラウンドでもない、ただの公園で、朝の5時半ですよ。エディーさんに呼び出され、練習台になってくれたのは湯原さん(祐希/HO/故人)と垣永(真之介/PR/バックアップメンバー)でした。コンタクトフィットネスを1時間、泥だらけになってやらされた。これがお前の復帰テストだ、と。やり切ったら、いいね、と言われました」
みんな戦っていた、と前述した。コーチ陣も自分の責任分野で結果を出すために必死だった。
「スクラムコーチの(マルク)ダルマゾは、自分が必要だと思うスクラム練習の時間を与えられないと、次のセッションの時に、倍の時間使っていました。エディーさんが怒っても、無視して。スティーブ(ボーズウィック/FW担当)の手の甲がめちゃくちゃ腫れていたことがあった。スクラムマシンに挟んでしまった、と言っていましたが、そんなはずがない。(フラストレーションから)陰で壁を殴ったはずです。あれ、折れていたと思いますよ」
選手同士が練習中に意見を衝突させる、ある時はつかみ合う、そんなシーンを何度も見た。ブライトンでのあの試合の時も、ピッチ上でみんな、考えをぶつけ合っていた。
ラグビーを長くプレーしていて思う。「大事なのは現場での判断です」。
「コーチ陣がいくらいい戦術を提示してくれても、それを実行するのは選手たちです。南アフリカ戦の最後のリーチさんの決断もしかり、その場の状況、空気を感じて決める」
準備した戦術を遂行するだけでは足りない。理屈に沿ったプレーや判断は間違いではないが、「ラグビーは生もので生き物。予定通りにはいかない。その時に選手が、こうしたらいいと思ったら、それをやるべき」。
そのために、あらゆる準備をしておく。やり切っておけば、その時の判断で動ける。
「ただ、予定と違う判断をするなら、絶対成功させないといけない。そして、『お前、(予定と違うことをやって)責任を取れんのか』と言われても、あのときのチームには責任を取れる選手が多かった。判断が失敗だったとしても、俺の判断が悪かったって、ちゃんと言える人が多かった」

すべてはW杯で勝つために
1991年にジンバブエに勝って以来、24年間もW杯での勝利から遠ざかっていた日本代表が変われた理由を、「マインドセットの変化に尽きるでしょう」と言う。
「もちろん過去の日本代表の人たちも絶対に勝ちたいと思っていたはずです。ただ、2015年大会を戦ったチームほど勝利を熱望し、欲望があったかといえば、そうではなかったと思います。なおかつ勝つために必要なものを提示し、それをやり切れたらどういう結果が生まれ、さらにその結果が何をもたらすのか、というところまでエディーさんは細かく示した。そこまでやった日本代表は、あれが初めてだったと思います」
世界トップクラスの経験値を持つ指揮官は就任後、選手たちに問うた。どんな結果を得られたらお前たちは満足するのか、結局のところW杯で勝たないと意味がないのでは、と。
「アジアで勝とうが、パシフィックネーションズカップで勝とうが、結局世間の人が見るのはいちばん大きな大会、ワールドカップ。そこで勝たないと、注目されない。一つひとつのテストマッチはすごく大事で、すべてに100㌫をかけるべきだけど、それが真実、と」
目標が定まった選手たちに、勝つために必要なことを示す。さらにその先、勝てるようになるとどんなプラスαを得られ、そのリターンとしてグラウンド内外で何が起こり、例えばW杯で勝てたなら、帰国した際に自分たちがどんな存在になっているかまで選手たちにイメージさせた。
だから稲垣も、FWは絶対に体を大きくしてセットプレーを強くしろという指令のもと、体重を120㌔ぐらいまで増やした(2013年のワイルドナイツ入団時は112㌔前後)。その体重で、レベルズ(スーパーラグビー)でもパナソニックでも求められるプレーをするんだ、と。
「自分でも、すべては日本代表がワールドカップで勝つためにやっていること、と考えていたので重い体を維持しました。南アフリカのリザーブのフロントローたちより自分たちの方がデカかったと思います」
厳しい言葉をぶつけられたり、半強制的な指導を受けて土台を築いた選手たちは、やがてプレーも判断もできるようになり、自立し主体性を持って動けるようになった。そんなプロセスと変化があったから、南アフリカ撃破は実現したと稲垣は思う。「オールドスクールのような指導法が、当時の代表には合っていました」。
「人生の中でなかなか味わえないような光景をフィールドで見させてもらった。いま思い出すと感慨深いですね。エディーさんは、僕を成長させてくれた恩師の一人です」
いつかまた日本ラグビーは10年前のようなシーンを迎えられるかと問うと、「数年単位で日本ラグビー全体がひとつになり、強くなる方策を継続してやっていければ、(また南アフリカを)崩せる日が来ると思います。エディーさんは、いまは、昔のような(激しい)やり方はできないと言っていますが、崩さなきゃいけないですよ」。心の中は熱いのに、淡々と話した。
この秋は別にして、自分自身にだって、そのチャンスはある。
*ラグビーマガジン11月号(9月25日発売)の連載「ブライトンの記憶」Episode3を再掲。沢木敬介さんが語る連載第4回を掲載した「ラグビーマガジン12月号」は好評発売中!
◆Amazonでの購入はこちらから
https://www.amazon.co.jp/dp/B0FV3V9DQD
![「前へ」を体現するリーダーへ。高比良恭介[明大2年/HO]](https://rugby-rp.com/wp-content/uploads/2025/11/cddf50450007553db70dfd70c85cf0c9-272x153.jpg)



