【ラグリパWest】学生の水先案内人。末迫太一 [関西大学職員/ラグビー部キャリア・アドバイザー]
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末迫太一(すえさこ・たいち)は母校の関西大学に今年4月、職員として戻ってきた。それは、ラグビー部に還ることも意味する。
部内では33歳の<キャリア・アドバイザー>として、主に後輩たちの就職活動、いわゆる「就活」をバックアップする。
その新設のポジションへの就任は図らずとも強化の一環になる。上級生の就職の不安を軽減でき、よりラグビーに集中させられる。
「後輩たちは忙しい。単位を取り、ラグビーの練習もあります。ただ、新卒で入れる会社は1社だけ。だから、就活を大切にしてほしい。私はよき伴走者でありたいのです」
細く光る眼が楕円球の輪郭の中にある。LOあがりとは思えないほどスリムだ。
「33歳の選択より、22歳の方が選択肢は多い。総理大臣でも宇宙飛行士にでもなろうと思えばなれるでしょう」
その就活のためのキャリア教室をラグビー部の3年生を対象に開いた。
今月2日、前の勤務先の後輩とリーグワン、九州KVのSO喜連航平に来てもらい、1時間ほど就活の心構えを話してもらう。プロ選手の喜連は一般社団法人を軸となって運営し、後輩は副業としてそこに所属している。
末迫の前の勤務先は日本漢字能力検定協会、略称「漢検」だった。内閣府から公益財団法人の認定を受け、その検定は10級から最上の1級まで12段階ある。
新卒として、末迫は漢検協会に入った。
「元々、教育に興味がありました。スポーツはもって生まれたものが大きい。でも漢字は反復練習。誰にでもできます」
その平等さにひかれたこともある。
漢検協会には10年在籍した。最初の4年は営業をやり、あとの6年は人事に回った。入社時の面接や説明会を担当した。採用する側の気持ちや考えがわかる。
より直接的に教育に携わりたいという思いが頭をもたげ、昨年、母校の社会人採用に手を挙げた。その時、ラグビー部の先輩で、職員でもある桑原久佳には連絡しなかった。
<個人的なことで迷惑をかけたくない>
それが末迫の思いだった。
桑原は現在、ラグビー部の副顧問である。顧問には教授がつくため、桑原は実務的なトップだ。職員としては局長級。その力に頼ることなく、末迫は受かる。倍率は200倍以上と言われた。そして、この事実は末迫の人となりと能力の高さを物語っている。
末迫の配属先は総務局である。
「担当は学内における飲食業者の営業許可や監督になります」
総務と広報は組織における肝である。総務は内側を固め、広報は外に発信する。その勤務は末迫への期待度を表している。
末迫は社会学部の卒業生だ。
「SFで入りました」
スポーツ・フロンティア。いわゆるスポーツ推薦である。出身高校は尾道。この広島の私立校でラグビーをやった。
尾道市内の中学ではバレーボール部だった。「違うスポーツをやりたい」という思いもあり、その184センチの長身を前監督の梅本勝に見込まれたこともあった。
「1年生15人中、初心者は私だけでした」
梅本は大阪を中心に経験者を集めていた。
末迫は振り返る。
「やめたら負け、の思いでやりました」
実家は学校に近かったが、あえて寮に入った。朝4時45分の点呼で始まる練習にも音を上げなかった。
冬の全国大会は3年間出場。3年時は正LOになった。90回大会(2010年度)は3回戦敗退。大阪朝高に7-12。その頃、最初に進学を誘ってくれたのが関西大学だった。
大学では3年時を除き、3年間は関西リーグのBだった。二部である。
「2年から公式戦に出してもらいました」
4年時は入替戦で大体大に39-0。Aリーグに戻した。社会人で競技は続けなかった。
「腰のヘルニアで4回、手術しました」
そして、漢検協会を経て、母校に戻る。後輩たちの中に入る。
末迫は夏休みの早朝練習にも顔を出す。開始は7時30分。グラウンドのある新設の吹田みらいキャンパスに来て、30分ほどで仕事場のある千里山キャンパスに移動する。
「無理して来なくもいいのに、お疲れさまです、と言って仕事に向かいます」
監督の佐藤貴志は末迫の責任感の強さを感じ取っている。
学生から離れる休日は趣味の車を駆る。
「車は自由なんです。道はつながっている」
特に好きなのは1990年代の日産車だ。
「技術の日産の時代でしたから」
1991年式のフェアレディZは「ミッションがガタガタ」だったが、90万円で購入。修理を施し、ガンメタリックに塗装し直した。末迫は本質を見極めることができた上で、歴史あるものに敬意を払い、大切にできる。
歴史あるのはラグビー部も同じだ。創部は1923年(大正12)。低迷があったため、大学選手権の出場は5回。最後は末迫が卒業した年の52回大会(2015年度)だった。1勝2敗で予選ステージ敗退となったが、定期戦を組む法大には29-24と勝利した。
チームは今年、6回目の大学選手権出場を目指している。そのためには、5勝を挙げ、リーグ戦3位以上に入らないといけない。
「優勝をしてほしいですが、ジャンプして届く位置に目標を置くのもいいと思います」
昨年は入替戦出場の8位だった。
末迫の存在は大学選手権出場のためにも、何よりラグビー部の未来のために大きい。出口をしっかりすれば、この紺×白ジャージーに興味を持つ高校生は増える。よき人材が今以上に集まって来る。やりがいのある役職であることは間違いない。