もがき続けた先に。辻野隼大[京産大→コベルコ神戸スティーラーズ]
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4年間の大学ラグビーを戦い抜いたラグビーマンたちは、4月からそれぞれの道に進む。
2024年シーズンに共同主将のひとりとして京産大を率いた辻野隼大は、夢であったリーグワンの舞台でプレーする。
この4年間、誰よりもラグビーのことを考え、プレーしてきた。
ラグビーとの出会いは中学1年時。長吉西中入学当初はサッカー部への入部を考えていたが、友人に誘われてラグビー部を見学、興味を持った。
「初めて出会ったスポーツで、体をぶつけるのもそうやし、ルールが難しいのも新感覚で楽しかったんです」
部活に打ち込みたかった辻野にとって、ラグビー部はぴったりの場所だった。
やんちゃくれの多かった同部を束ねたのは、現在は関大北陽中に勤める宮脇弘宗先生。
生活指導を担っていたこともあり、ラグビーに限らず人として大事なことを教わった。
「いまの自分がいるのは先生のおかげ。すごくお世話になりました。いまでも連絡してる仲やし、自分にとってすごく大きな存在」
未経験者も多く、部員も少なかったから、1年時から試合に出場できた。
3年時には多くの高校から声がかかる。悩みはしたが、辻野少年には憧れの高校があった。
2年の冬、花園ラグビー場で全国大会の準々決勝を見た。
後に優勝する東福岡に、京都成章は22-28と迫る。タックルで沸かせる青と黄色のジャージーに胸を打たれた。
「会場のみんなを味方にする試合をしていた成章が、記憶に残りました」
家庭の事情で私立高校進学は半ば諦めていたが、湯浅泰正監督(当時/現校長)の誘いでサポートを受けられるように。
大阪から電車と自転車で2時間かけて通った。
京都成章のグラウンドは縦横70メートルと部員120人が練習するには狭く、その4分の1は野球仕様で土が敷かれている。しかも平日は週に2回しかグラウンドを使えなかった。
決して恵まれた環境ではなかったが、その分、自分たちで工夫する力、考える力を養えたという。
湯浅監督は「これをしろ」、「あれをしろ」とは言わない。「これはどう?」と、選手たちとの対話の中で日々の練習を決めてくれた。
映像を使ったり、多くの外部コーチの指導を受けたりと、ラグビーを多角的に学べる環境があった。
「成章に行ってよかったです。成章でラグビーが好きになりました。いま戦術を考えることが好きなのも、3年間で培われたおかげ」
1年時から花園の舞台に立ち、3年時には共同主将のひとりに。
コロナ禍を戦い抜いた。
チーム練習のできない3~4か月を経て再開したとき、チームはバラバラだった。規律は乱れ、モチベーションも下がっていた。
それでも、「残された時間を大切にしよう」と、3年生を中心に結束を強められた。
花園期間中にはメンバー外の献身的なサポートがあった。
成章初となる花園での決勝進出を果たし、準優勝を成した。
「史上最大」と言われたFWなど、前年からほとんどのメンバーを入れ替えながら、新たな扉を開けたのだ。
「決勝で負けたとき、悔しさよりもチームが終わる寂しさの方が大きかったです」
進路選択にもそのウイルスは大きく影響した。大学に直接見学する機会を得られず、情報も限られていた中、京産大から声がかかる。
関東の強豪校からも誘いを受けたが、成章でも1学年上の先輩にあたる三木皓正(現・トヨタV)の言葉が決め手になった。
「環境は大事だけど、それよりも自分自身がそこで何をするかの方が重要」
三木自身、当初は兄と同じ慶大志望だったが、叶わず京産大に進んだ。辻野はその人の鍛錬を知っていた。