コラム 2025.03.21

【ラグリパWest】コーチングの人間国宝。加藤尋久 [Training Salon Eureka 代表/明大、神戸製鋼ラグビー部OB]

[ 鎮 勝也 ]
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【ラグリパWest】コーチングの人間国宝。加藤尋久 [Training Salon Eureka 代表/明大、神戸製鋼ラグビー部OB]
ラグビーの教え子から「コーチングの人間国宝」と評される加藤尋久さん。熊谷工、明大、神戸製鋼でプレーした。現役引退後は7人制日本代表、東海大、日大、青山学院大などの監督やコーチをつとめた。現在は東京・用賀にある「Training Salon Eureka」の代表をつとめる

 金谷広樹はラグビーの師のひとりである加藤尋久(ひろなが)をこう評した。
「コーチングの人間国宝だと思います」
 金谷は38歳。大阪産業大附高のコーチだ。東海大の3年間、その教えを受けた。

 加藤は金谷に繰り返し言った。
「目の前で起こっていることを見て、プレーを選択しなさい」
 選手自らに考えさせる。そのための選択肢としてパス、ラン、キックを教えた。

 金谷は振り返る。
「ラグビーがどんどんシステマチックになってゆく中、加藤さんの教えは衝撃的でした」
 実はこの自分自身の判断こそがラグビーの醍醐味である。状況は刻々と変わる。決め打ちや手順ではなく、判断で局面を切り開く。そこに真の楽しさがある。

 加藤は言う。
「選手の時にどんなことをやっていたのか、っていうことなんだよね」
 俳優のように端正だった顔にはわずかにしわが刻まれる。57歳になった。変わらないのは真贋を見抜く眼の鋭さだ。

 加藤は無敵だった頃の神戸製鋼(現・神戸S)の一員だった。チームは全国社会人大会と日本選手権で7連覇する。加入理由があった。
「平尾さんから学びたかった」
 この深紅のチームを率いたのは平尾誠二。「ミスターラグビー」と呼ばれた。

 加藤は平尾とCTBでコンビを組んだりした。平尾のコーチングの芯は<スペースを作り、そこに走り込む>。システムではなく、戦況を常に見て、15人が順応する。練習は個人の融合のためにこそあった。

 平尾はパスひとつとっても教え方が違った。加藤は身振りを交える。
「こんな感じだったよね」
 体の前で手を「ハ」の字に開く。前にならえ、の感じだ。その方が従来の補球方向に手をもっていくよりも速くパスができる。

 加藤は首を痛めたこともあって在籍は5年と短かったが、残りの5連覇に貢献した。リーグワンの前身である全国社会人大会は43~47回。学生と覇権を争った日本選手権は28~32回大会。最後は1994年度だった。CTBとして日本代表キャップも2を得る。

 現役引退後、コーチ人生が始まる。これまで20ほどのチームの指導に携わった。7人制日本代表、清水建設(現・江東BS)、セコム(現・狭山RG)、母校の明大、日大、青学大、そして東海大などである。コーチ資格は日本ラグビー協会が認定する最上のS級だ。

 東海大のコーチは金谷の卒業と同時に退任した。翌2009年度、チームは大学選手権で初の決勝進出を果たす。46回大会は13-14と帝京大に1点差惜敗だった。加藤の置き土産と言っていいだろう。当時の3年生FLはリーチ マイケル。東芝BLの現主将で日本代表キャップは87に積み上げている。

 金谷は懐かしみを込めて話す。
「今は加藤さんの教えを採り入れながら、部員には接しています」
 大阪産業大附高は冬の全国大会出場こそないが、府予選決勝には11回進出している。そのすべては金谷の着任後のことである。

 加藤の教えの根幹、「見る」は家庭での教育である。父・二千雄(ふじお)は加藤組の社長だった。家業は土木系である。
「職人は教えてくれない。見て学べ」
 観察は家訓的だった。
「トイメンに立つだけでもいいんだよね」
 生の平尾が目の前にいる。目の動き、体の向け方ひとつとっても勉強になった。

 神戸製鋼には明大から入社した。紫紺のチームではスピード、タックルの強さなどで1年からSOを中心に公式戦に出場した。大学選手権は3年時に優勝する。25回大会(1988年度)の決勝は大東大と13-13。日本選手権にはトライ数差で出場を逃した。4年時は初戦敗退。大体大に10-21だった。

 明大では寮住まいだった。当時は上下関係があり、先輩の言葉を聞き返してはいけない。
「その時は嫌だったけど、今思えば理にはかなっているよね。集中しろ、ってことだから」
 それは試合中の意思疎通につながる。

 明大監督の北島忠治は熊谷工の加藤に注目してくれていた。思い出がある
「関東大会を北島先生が見に来てくれた」
 その高3の秋、国体(現・国スポ)で全国優勝する。3年間で唯一の頂点だった。
「埼玉県は初めてだったからね」
1985年、鳥取であった「わかとり国体」だった。選抜のオール埼玉で臨み、決勝で天理単独の奈良県を16-12で降した。

 全国大会はSOのレギュラーだった2、3年時ともに4強敗退。国体優勝に続く65回大会は優勝する大東大一に3-15で敗れた。大会後には高校日本代表に選ばれている。

 この熊谷工入学と同時にラグビーを始めた。15歳の時である。3つ上の幼なじみがOBだったこともあり、練習を見に行った。「どろんこ遊び」のように楽しそうに映った。

 それから42年が経った。現在、加藤はラグビーにとどまらず、他競技の技能向上や健康増進に資する「Training Salon Eureka」の代表をつとめている。東京・用賀で3年前にオープンした。クリーンファイターズ山梨の監督を退任した時期と重なる。

 このサロンの読みは「エウレカ」。
「ギリシア語の感嘆詞。やったー、とか、わー、とかいう意味だよ」
 加藤独自のトレーニングは受講者から驚きをもって迎え入れられる。

 野球U15日本代表に選ばれたのは大久保遼(はるか)だ。桐蔭学園の新1年生は投手と捕手を兼務する。加藤の元を訪れたのは中1の時だった。父は同校OBで元近鉄(現オリックス)の外野手だった秀昭だ。母校・慶大やENEOSの監督をつとめた。

 アスリートだけではない。80代女性の股関節の痛みは加藤のトレーニングで消えた。
「踏み台昇降や背中を鍛えさせてもらったよ」
 長いコーチ人生から、体のメカニックの知識も備わっている。会員にはベテランの医師もいる。サロンは地域に根差している。

 その状況で質問をぶつける。
 今でもラグビーのコーチをやる気はある?
「僕でよければ。必要としてもらえるところがあるならね」
 人間国宝の腰は決して重くない。恩返しも含め、お役に立つ気持ちはまだある。

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