矢野武アナウンサーも注目するホンダヒート。期待の若きスクラムハーフ・北條拓郎に話を訊いた。
HEAT Way -Rise Up- 3年後リーグ優勝へホンダヒートの挑戦が始まる
ラグビーとの出会い、家族の存在。
――では、ここからはラグビーとの出会いからお話しいただければと思います。
長野県はラグビー人口がすごく少ないのですが、僕が住んでいた地域はラグビーが盛んでした。
僕は3兄弟の末っ子で、兄2人が先にラグビーを始めていたので、年中ぐらいからはラグビーボールを触ったり、持って走ったりということはしていたみたいです(次男はクリタウォーターガッシュ昭島のHO・耕太)。
――他のスポーツをやってみたいという気持ちはなかった。
なかったですね。ラグビーをしているのが当たり前で、辞めたいと思ったことは一度もないです。
――母・美代さんの応援は熱いと聞きました。
どこの会場でも応援に来てくれます。大学の時も関西までは4、5時間かかるけど、毎週来てくれました。練習試合でも来てくれました。
兄が天理高校の時から続けているのでもう10年以上になると思います。今でも天理大学の応援に行くくらいラグビーが好きなお母さんです。
――声援は聞こえるのですか。
めちゃくちゃ聞こえますよ。ただ声援が聞こえても、気がついていないようにしています(笑)。たぶん天理の保護者の間では有名だと思います。いつも叫んでいるし、いつもいるし。「タクロー、イケー!」みたいなのが聞こえたら、絶対にお母さんです。
――すごいですね…。お母さんが遠征するきっかけは、奈良の天理高校進学からだった。
兄が2人とも天理高校に行っていたので、天理高校に行きたいとこっちが言う前に、親と監督との間で天理高校に行くことが決まっていました(笑)。高校まで進路は2人と全部同じです(高森RSから南信州JrRS)。
――高校では意外にもバリバリのレギュラーというわけではなった。
高校でははじめ、全然試合に出られませんでした。2年生の時にチームは花園に出ましたが、僕は控えから一度も試合に出ていません。
けど、3年生の選抜大会で一度フランカーで出させてもらって、それが良い感じにハマったんです。元々タックルは得意だったので、そこからスタートでいろんなところで使ってもらえるようになりました。センターやウィングもやりました。
――スクラムハーフで出られなくても、モチベーションは保てた。
ラグビーが好きなので。絶対に諦めたくなかったし、とにかくディフェンスができるという強みをアピールし続けました。
――今のスタイルのベースになっている。
絶対に繋がっていると思います。リーグワンは体の大きい選手ばかりなので、大学や高校の時みたいに簡単ではないですけど、体を当てにいくのは嫌ではないし、ブレイクダウンにもガンガン頭突っ込めます。
――では挫折とはまた違ったのですね。
そうですね。高校の時は挫折ではなかったです。スクラムハーフではなかったけどチャンスをもらえて、白いジャージーを着て試合に出られたのは本当に嬉しかったです。
大学時代の挫折、地元のコーチの存在。
――「高校の時は」ということは、大学では挫折があった。
はい。2年生の時に心が折れそうになったことがあります。1年の時点で自分が3番手だったので上2人が卒業して2年の春からスタートで出させてもらったのですが、全然うまくいきませんでした。
夏の菅平で一気に5番手、6番手くらいまで落とされました。かなりショックでしたし、その後もなかなか上がれなかった。
菅平から戻ってからは、南信州RSの下平(正)コーチにも相談しました。今でもラグビーの相談をさせてもらっていて、帰省した時は一緒にトレーニングしてくれますし、後押ししてもらっています。
それからは自分のセールスポイントを地道にアピールしました。それを小松さん(節夫/監督)がしっかり見てくれて、シーズンの途中でまた9番に戻れました。
――下平コーチの存在は大きいのですね。
「最近、調子どうだ」とまめに連絡をくれるんです。あの時も試合の映像をチェックしてくれて、何が通用していて何が足りないかを細かく教えてくれました。
その試合映像は母がコーチに送っていたんですよ。ここでまた母親が出てくるのですが(笑)。
――敏腕マネージャーのようですね。もしかして北條さんにコーチから連絡するように伝えていたのでは…。
いま思えば、本当にそうかもしれないですね。コーチからタイミング良く連絡が来たなと思ったんですよ(笑)。
――今度、真相を確かめてくださいね(笑)。大学の話に戻ります。4年生ではキャプテンになりました。これまでキャプテンの経験は。
初めてです。リーダー自体が人生初でした。キャプテンになるまでは全然そういうキャラクターでもなかったし、前に出ることもそんなに好きではありませんでした。
小松さんからキャプテンどうやと言われて、僕も自分しかいないかなと思ったので、やることになりました。
――3年ぶりに全国ベスト4まで導きました。
春は同志社に負けたので、去年、一昨年と変わらないかなと思ったんですけど、夏にみんなが本当に頑張ってくれて、自分たちの強みをしっかり出せました。
帝京大との準決勝で負けてしまいましたが、シーズンでも一番いい試合でしたし、年越しもできて楽しかったです。