コラム 2024.10.16

【コラム】奇跡の一戦を、あらためて振り返る。早大学院vs國學院久我山

[ 渡邊 隆 ]
【コラム】奇跡の一戦を、あらためて振り返る。早大学院vs國學院久我山
1978年2月号のラグビーマガジンに掲載された早大学院vs國學院久我山の一戦

 1977年12月4日、全国高校ラグビー大会の東京都予選第1地区決勝、早稲田大学高等学院と優勝候補の國學院久我山高校の戦いがおこなわれた。
 後世の伝説として残る世紀の一戦は、ラグビーの聖地である秩父宮ラグビー場でおこなわれ、TBSテレビのフル中継で放映された。

 当時の久我山といえば、2年前の1975年度の全国大会で、日下主将、長沼(ともに早大進学)を擁して全国優勝(全試合圧勝)を遂げ、1年前の大会でも砂村主将、相沢(ともに明大進学)を擁して全国ベスト4。目黒高校(現・目黒学院)は全国優勝を成し遂げていた。東京では全国優勝するほどの力がなければ、地区予選を通過できない高いレベルであった。

 一方、早大学院は偏差値75の進学校。しかも、大西鐵之祐先生曰く「エンピツより重い物を持ったことのない」か細いラグビー部員が三十数名のチームであった。

 試合は大方の予想通り、FW戦は久我山が終始圧倒し、早大学院のスクラムをことごとくめくり上げ、ラグビーの試合として成立しないのでは、と思えるようなミスマッチな決勝戦と誰もが思っていた。

 私も後に大西先生のご自宅で録画を見て、スクラムでフロントの足が完全に上げられ、空中に浮いていたり、数十メートル後ろに走らされていたりと、見たことのないシーンの連続であった。
 久我山は試合前から負けることなど寸分も考えず、全国大会を考慮してエースの竹内、佐々木薫を温存していた。

 しかし、早大学院はOB(旧制高校時代)でもある大西先生の指導を受け、「どんなに強い相手にも勝つ方法はある」という最も大切な勝利を信じる力を、15歳から18歳の高校生たちの心に植え付けていった。

 そして、東京都大会に勝利するための戦略、机上の方法論を鈴木監督と構築し、グラウンドに落とし込み、修正を重ねていった。
 驚くべきは、大西先生は早大での授業も持っており、グラウンドにはたまに顔を見せる程度であったという事実である。

  寺林主将は後にこう語っている。
「当時の東京都は目黒、久我山が圧倒的でした。目黒、久我山と同じことをやっては絶対に勝てない。『自分たちの強みを徹底的に考えること。頭を使って徹底的に自分で考えろ』と何度も言われ、戦い方、戦略、戦術を必死に勉強しました。特にディフェンスはたぶん高校生ではかなり高いレベルだったと思います。ディフェンスでプレッシャーをかけ、いつも横綱相撲で伸び伸びとやる久我山を焦らせる。トライは3つのメソッドに絞り込み、全員の意志統一を図りました。
『君たちが本気で考えたものは、相手は絶対マネできない』。これが最初のマインドセットでした。春に目黒、久我山に負けましたが、通用することがたくさんあり、手が届くレベルであると実感できたことが大きかった。そこでの修正点を練習に落とし込み、新しいこともたくさんやりました」

 当時の14番で先発したWTB野本もこう語っている。
「大西先生が常時グラウンドに来て指導してくれたわけではなかったのですが、メンバーが口を揃えて言っている通り、決勝戦数日前に先生がやって来て指導してくれた特別な練習が強く印象に残っています。本番でバックスラインがことごとくタックルポイントで仕留められたディフェンスや、ピールオフなどに絞ったアタックなど、試合のすべてがこの時の練習通りに運んだのです。
 都大会では準決勝までは負けられぬプレッシャーが大きかったですが、決勝はすべてを出し切れば、自分で納得のゆく結果が待っているのではないか、くらいの気持ちでいられました。4年後の早明戦の時もそんな感じでしたね」

 大西先生は、準決勝までの相手の戦いをつぶさに観察し、相手の戦力、戦術を見抜き、勝利への道筋が鮮明に見えていたのだと思う。

 かつて大西先生は、日本代表監督を務めた4年間で、選抜したメンバーを鍛え上げ、オールブラックスに本気で勝とうとしていた。船でニュージーランドに乗り込み、実際にオールブラックスジュニアに勝った監督である。しかも当時は、海外出身選手は一人もいない、小さな日本人のチームで勝ったのだ。

 ラグビーの母国イングランドとのテストマッチでも3-6と、あと一歩まで攻め寄った戦いなど、誇るべき日本代表チームを創り上げた桁外れの指導者には、高校生の戦い方、特徴、弱点、それに対応する勝ち方というものが、手に取るように解かっていたのではないだろうか。
 そこに純真な高校生の、ひとつに結束した魂を投入したのである。

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