コラム 2024.03.21

【ラグリパWest】オレンジの歴史を知る男(上)。荻窪宏樹 [クボタスピアーズ船橋・東京ベイ/アドバイザー]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】オレンジの歴史を知る男(上)。荻窪宏樹 [クボタスピアーズ船橋・東京ベイ/アドバイザー]
クボタスピアーズ船橋・東京ベイの歴史を知る荻窪宏樹さん。現在はチームアドバイザーをつとめ、その良化に心を砕く。取材をした関西のカフェは花園近鉄ライナーズを応援してるらしく、左奥にジャージーをつるしているのが見える。


 私は荻窪宏樹(おぎくぼ・こうき)の神髄を知る、はずである。

 人のために身を挺する荻窪のその神髄が、昨年度のリーグワン初制覇をもたらした要素のひとつであろう。チームはクボタスピアーズ船橋・東京ベイ。短縮形はS東京ベイだ。

 私は覚えている。謝り続ける荻窪の姿を。頭を下げ、「申し訳ありませんでした」を繰り返した。20年ほど前のことだろうか。ある指導者に呼びつけられた。荻窪は前名のクボタスピアーズのチームスタッフだった。

 そもそも粗相をしたのは荻窪の後輩だった。にもかかわらず、まったく言い訳をせず、東京から飛んできて泥をかぶった。

 明治の大学時代にも逸話がある。「上級生」と呼ばれる3年になったのに、4年生からしつけを受けそうになった。一緒にいた下級生がその4年生を相手にしなかったことがその発端らしい。

 ここでも責任を負う。
「あの時は岸さんが飛んできて、やめろ、って言ってくれた。ケンゾーも来てくれたよ」
 岸直彦はひとつ上のFL副将。国学院久我山の高校時代から先輩だった。ケンゾーこと高田健造は同期NO8。翌年、主将になる。

 自己犠牲をいとわないその心は顔に出る。えびす顔。福々しさは昔から変わらない。髪のその生えぎわに少し白いものが混じった程度か。荻窪は還暦を2つ超えた。

「ラグビーのよさってさ、仲間を思う気持ちだと思うんだよね。みんなで苦しいことを乗り越えるじゃん? だから友だちができるんだよな。そして、それは一生の友になる」

 荻窪は一昨年8月、S東京ベイのアドバイザーについた。来し方を思い、助言する。このチームにはいい意味での人の良さがある。人を優しく包み込む。ヘッドコーチ(監督)のフラン・ルディケの器の大きさもそうだが、荻窪の影響もあるのだろう。

 なんとなれば、今、S東京ベイの中枢を担っているのは、荻窪が採用に関係した人間がそのほとんどだからである。

 チーム最高責任者になるGMの石川充は1992年の入社。荻窪は採用担当だった。
「プレーはもちろん、人柄がよかったよね。キャプテンが来てくれてうれしかった」
 石川は龍谷大出身。ポジションは荻窪と同じSHだった。石川の最終学年、龍谷大は関西Aリーグの4位だった。

 岩爪航(いわつめ・わたる)は広報マネージャーについている。
「僕も荻窪さんにとってもらいました」
 岩爪は法大出身のPR。2008年の入社になる。当時、荻窪はチームディレクターだった。

 岩爪の同期、前川泰慶(ひろのり)の獲得にも関わった。同志社の主将でLO。今はチームディレクターとして石川を補佐する。「荻窪チルドレン」たちはS東京ベイを支える。

 そのオレンジのS東京ベイの前に、荻窪には紫紺ジャージーの明治があった。その入学は鳴り物入りだった。1979年度(昭和54)の高校日本代表である。当時は153センチ、60キロ。SHとして低いプレーと100メートルを11秒台で走る俊足を持っていた。

 高校日本代表は大学に入る春休み、ニュージーランドに遠征した。
「6戦全勝だったんだよ」
 荻窪は4試合に出場した。交替は負傷しか認められなかった時代、このポジションでこの代のトップだったことになる。

 明治では1年秋に公式戦出場する。シーズン序盤の東大戦だった。
「途中出場したんだよね」
 翌週は先発が決まっていた。その週、東芝府中(現BL東京)との試合形式の練習で惨劇に見舞われる。
「気がついたら、病院のベッドだったよ」
 右肩を脱臼骨折していた。

「右肩から手までを4か月ほど石膏で固められたままだった」
 2年目はリハビリに明け暮れた。そして2度と紫紺に袖を通すことはなかった。同期のSHは中谷薫と鷲尾光昭がいた。2つ下にはトヨタ自動車(現トヨタV)に入る南隆雄が入学してきた。才能は多かった。

 荻窪の記録は公式戦出場1。それでも、ラグビーを続けたかった。
「真下(ましも)さんに相談したんだよね」
 真下昇はレフリー出身。後年、日本ラグビー協会の専務理事や副会長を歴任する。荻窪の実家は目黒。真下の家は近所だった。

 真下は和崎嘉彦に話を通した。和崎の勤務先は久保田鉄工だった。現在のクボタであり、S東京ベイはこの会社のチームである。業界分類はメーカーであり、農業用や建築用の機械、建築材料、鉄管などを作っている。

 和崎はラグビー経験者で、慶応大の監督をつとめたこともある。すぐに面接をセットしてくれた。4年秋、10月中旬のことだった。

 しかし、人生はそんなに甘くない。面接の出だしは英語だった。
「終わった、って思ったよ。答えられなかった」
 会社はグローバル化を目指していた。

 うなだれる荻窪。その時、人生のどん底から引き上げる言葉が面接官から飛ぶ。日本語だった。
「おまえ、いい奴らしいな」
 のちにわかる。明治の2つ下の後輩、今岡大拓と佐久間伸行の父2人がこの会社にいた。なまの情報がすでに入っていた。
「ともに部長級だったんだよ」
 ラグビーに救われる。

 荻窪は明治で大学選手権の優勝を経験する。2年時の18回大会(1981年度)だった。早大に21-12。今、60を数える大会で、明治は歴代2位、13回の優勝を誇る。この優勝はその5回目となる。4年時の20回大会は4強敗退。日体大に22-33だった。

 その競技歴を持って荻窪は久保田鉄工に入社する。1984年4月のことだった。

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