【再録・解体心書③】楽天家で行動派。長田智希
「ラグビーを始めた時から、日本代表はかっこいい、すごいっていうイメージがありました。だれ、というわけでなく、いいなあと。U20にも選んでもらっていますが、これは、年代別のものであって、本当のジャパンとは別物やと思います。いろんな世代の人がいて、チームがあって、それぞれに歴史を積み上げてきた中で、今の、ベストの人がそれをつかみ取るのがジャパンだから。
自分はまだ全然そのレベルにないので、ポジションなども想像できません。でもできれば…CTBで選ばれたい。
本当にこの先は、今のままでは全然通用しないと感じます。自分のポジションは海外出身の選手も入るし、一体どうやったら、あのレベルに入り込めるのか、考えます。
たぶん、今までの自分は『泥臭く、地味なプレーで貢献できたら』というスタンスでなんとかやってきた。場数を踏んでいるから、『気が利く』的なことも言ってもらえますが、それも、ここからの上の人にはみんな備わっている。つまり、僕の持っているものは普通になっていくと思う。だから、プラス、自分なりの大きな武器を持ちたいんです」
ふわりとした受け答えの中で、考え尽くした答えが次々に表明される。自己分析はむしろ悲観的なほど厳しいが、やってみなくちゃわからないという前向きさが行動力の源か。日本代表に少しでも近づくために、早稲田で何をしよう。そんなプランも持っている。
「チャレンジしたいと思っています、今年は」
たとえば、タックル一つとっても、今までは「抜かれない」が第一義だった。これからは「ここ一番」で相手を仰向けにひっくり返すタックルも、できるようになりたい。一発で流れを変えるような。そのためのリスクは自分の中で負っていきたいと覚悟を決めている。ディフェンスの考え方にも、幅が生まれるだろうか。
◎
ラグビーとの出会いは、同級生の友達の誘いがきっかけだった。
「笹岡海斗(京都成章→京産大)が誘ってくれて。小4でした、他に小1から空手もやっていたのですが、初めての試合で、ボール持って走るって、ただそれだけってシンプルさがすごく良かった。自由で、楽しいって思いました。ちなみにその時はFWで出てました」
足は当時から速く、中学ではBKに。部活動でラグビーを続けるため、車で20分ほどの神川中に越境して通った。高校の進路は、実はあまり深刻には考えていなかった。
「近くの強いところかなあ、という程度、それが、中学の先生に勧められて仰星に」
東海大仰星では1年からリザーブ出場、3年になった時、過去の3年生の姿を、もっと見ておけば良かったと悔やんだという。
「1年から一生懸命やっているつもりだったけど、3年になったら、もっとやっておけばと思った。だから、3年では出し切りました。大学に来てすごく意識しているのは、先輩の姿をしっかり見ておくことです。あとは、1、2年だからできることは、今やっておく」
ディフェンス面でのリスクを負うというのもその一つなのだろう。
本来はまったくキャプテン・キャラではない、というのが本人の分析だ。高校3年で指名を受けた時には戸惑った。
「僕ですか? っていう。いったい、どんなキャプテンになれるだろうと考えて、まとめる力が自分にあるとは思えなかった。言葉よりもプレー、誰よりもしんどいことをやる、やり続けるしかないと思いました。ウエートも、練習も、試合でも。誰よりもやる」
しかし、非情にも限界は花園でやってきた、という。長田たちの花園優勝までの道のりは山あり谷ありだった。選抜は予選リーグ敗退、なかなか結果が出ない中で迎えた冬。3回戦では、秋田工と同点、トライ数差で辛くもしのいだ。
「あのレベルになると、プレーだけじゃ、やっぱり足りないと思いました。勢いがあればいいけれど、みんながしんどい時、インゴールやハーフタイムにどんなことが言えるのか、どんなことを考えているのか、特別なものがないと、それが伝わらないと、局面が変えられない。みんなを勝たせられない」
しかし、それはキャプテンの思い込みだったかもしれない。背中を見続けてきた部員は、なんとかサポートしたいと、長田にプレーでお返しをしてきた。
「みんなが、いいプレーで持っていってくれたんです。自然と、自分も最後の方はみんなに声がかけられるようになった」
花園は最後に、最高の思い出の場所になった。