【再録・解体心書①】不撓不屈のフルバック。山中亮平
ジェイミー・ジョセフHC体制になっても、当初は声がかからず。サンウルブズも’16、’17年と呼ばれたが、ジョセフ氏が率いた翌年には声はかからなかった。
「W杯までの道のりで一番しんどかったのは、’18年の前半ですかね。ジャパンもサンウルブズも何も呼ばれなかった。春に家族で話してて、“もうW杯は無理かも。ここで呼ばれてないときつい”と話をしていた」
’18年春、世界のラグビーの知将であるウェイン・スミス氏が神戸製鋼の総監督に就任。山中は夏合宿からFBに固定される。
「FBになってから楽になりました。やることが明確になったし、カーターがゲームメークしてくれる。僕は自分の役割をやりきるだけで、プレーに対する迷いがなくなった。みんなも成長してコミュニケーションがとれるようになりました」
秋には日本代表に追加招集され、NZ戦に出場。トップリーグでは、圧倒的な強さを見せつけ、18季ぶりに日本ラグビーの覇者となる。山中も15番を背負い、全試合に出場。その存在をアピールした。
年が明けて’19年。W杯を数か月後に控えたとき、サンウルブズから声がかかった。
「ブラウニー(トニー・ブラウン)が“サンウルブズで試合しよう”と言ってくれた。毎試合毎試合がセレクションだと思って、必死でした。(ジャパンに選ばれたのは)ブラウニーのおかげかもしれない」
サンウルブズでは中盤戦の7試合に出場。FBとして安定したキャッチング、キック、フィールドプレーを見せ、存在感をアピール。まさに「ここしかない」というチャンスを活かしきった。
「夏合宿からFBに替わって、秋の追加招集に呼ばれて…。それがこんなことになるとは。不思議ですよね。エディーのときも呼んでくれたのがいいきっかけになった。ウェイン(スミス)が言うのは基本的なこと。ずっと足りないと思っていたところを、底上げしてくれた」
そして日本開催のW杯で大輪の花を咲かせた。高校時代からあふれる才能をうたわれた選手の本当の輝きは、どんな状況でも最後まであきらめない芯の強さにあった。
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W杯後は歩いていても声をかけられるように。超高級ブランド店に買い物に行った際には、お祝いにシャンパンのボトルをプレゼントされ、みんなで祝ってもらった。
「もったいなくて、まだ家に飾ってあります」
大きな目標を達成したいま、家でゆっくり過ごしながら、少しずつ次のターゲットを定めている。
「W杯に出たいというでっかい目標が達成されたんで、いまは近いところを攻めてます。トップリーグでも優勝を目指してますし、次のジャパンもしっかり呼ばれるよう頑張りたい。それを積み重ねていけば、またたどり着くだろうと」
現在32歳。ジャージーを脱いだ後のことも視野に入る年齢になった。
「なにかしらラグビーには携わりたい。それをこれから考えていく段階です。コーチは他にたくさん、いい人がいるので、違う形で選手をサポートしていきたい。悩んでいる選手はいっぱいいると思う。僕はいろんな経験をしているので、そういう選手にきっかけを作ってあげられたら」
どんな時でも挫けなかった体験は、本人にしかないアドバンテージだ。いま悩んでいる選手には。
「与えられた場所で頑張るしかない。僕もポジションが替わったり、追加招集で呼ばれましたけど、そこでしっかり頑張った。そこでやりきってもないのに、なんでメンバーに選ばれないんだ、と思うのではなく、納得いくまでやりきって頑張ってほしい」
花園で頂点に立った当時、「山中のチーム」と言われていた。
「そうでしたね。あの頃は“俺が勝たせる”くらいの気持ちでてたけど、いま考えれば、みんなが僕のプレーに合わせてくれていた。僕が周りを活かしていたというより、活かされていた。いまになってそれを思います」
いろんな経験を重ねて、そのときは分からなかったことが見えるようになった。ラグビーを通じて己を磨いた生き方は、これから後に続くたくさんの選手を勇気づけるはずだ。
「まだまだ(最高視聴率)狙いにいきますよ(笑)」