日本代表 2023.10.02
【再録・解体心書①】不撓不屈のフルバック。山中亮平

【再録・解体心書①】不撓不屈のフルバック。山中亮平

[ 編集部 ]

 大学も「強いチームでやりたい」と早くから目標を定め、早大に入学。すぐにレギュラーに抜擢され、大学1、2年時は大学選手権で優勝。いっときBチームに落ちたこともあったが、ほぼ順調。’10年、大学4年の春にはジョン・カーワンHC時代の日本代表に呼ばれ、アラビアンガルフ代表戦で初キャップを獲得した。

 だが翌年の春、髭を伸ばそうと購入した医薬品にドーピングの禁止薬物が含まれており、2年間の選手資格停止処分が下された。資格停止中は練習はおろか、クラブハウスの敷地に足を踏み入れることも禁じられた。抜き打ち検査にも対応しなくてはならない。試練の日々だった。

 加入予定だった神戸製鋼も、当初はプロ契約。それを、当時の平尾誠二GM兼総監督のはからいで、正社員に。ラグビーから離れている間、一般社員として勤務した。

「あの2年間で、全部見直せた。それまで順調に上がってきたところから、一気に落ちた。離れる人もいれば、支えてくれる人もいた。社員として働き始めたときも、時期的に研修が受けられなかったから、最初は電話の出方すらわからなかった。“ラグビーなかったら何もできへんなあ”と。人として成長させてもらえました」

 平尾GM兼総監督も、何くれとなく気をかけてくれた。

「会社に来られたときは食事に連れて行ってもらいました。“ラグビーちゃんとやってるか、頑張れよ”くらいの他愛ない話でしたけど、気もまぎれたし、目を配っていてくれるのが嬉しかった」

 選手として復帰したのは’13年のこと。1年目は平尾誠二GM兼総監督、苑田右二HCの体制。翌年からはほぼ毎シーズン、体制が変わった。チームが方向性を模索していた時代だ。その中で「大きく変わった」と振り返るのは2年目、南アフリカ出身のギャリー・ゴールドHCの時だ。

「それまでSOしかできなかったのが、CTBとして出ることが多くなって、12番という選択肢ができた。戦術も僕の得意とするキックを使うラグビーでした」

 だがギャリーは1年で退任、その後、同じ南アのアリスター・クッツェーHCが継ぎ、’16年にはジム・マッケイHCが就任。今度はオーストラリアスタイルのラグビーに。

「あの頃は、僕の役割が多かった。試合中、“あれもしな、これもしな”という感じでいっぱいいっぱい。選手でいろいろなことを決めていたので、結構きつかったです」

 日本代表ではエディー・ジョーンズ氏が指揮を執っていた。メンバーには呼ばれたり呼ばれなかったり。’15年大会の最終メンバーに入ることはできなかった。それでも「W杯に出たかった。とりあえず日本大会までは頑張ろうと」。

 メンバーにケガ人が出て呼ばれる追加招集も必ず応じていた。

「呼んでもらえるのは光栄なことなので、ずっと参加していました。でも、ただ練習に参加するだけのときもあったし、呼ばれてケガしたら、“帰って”と。メンタル的にはきつかった」

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