【長澤奏喜のRWCチャレンジ2023 #2】軍兵の検問で助けてくれたのはラグビーボールだった。
2019年のワールドカップ開催に向けてのチャレンジ時は、ラグビー登山家として活動した。
当時の長澤奏喜さんは、大会のトーナメントマークにインスピレーションを受けて冒険を始めた。富士山と重なっている日の出のデザインが、まるでラグビーボールを山頂にトライしているように見えたという。
過去にラグビーワールドカップに出場した25か国に向かい、それぞれの最高峰に、ラグビーボールでトライするという世界初の冒険だった。
その人はいま、ウクライナにいる。今回は戦地を歩き、ゴールはパリ。ワールドカップに向けてふたたび冒険を始めている。
5月11日に日本を発った。
関空から北京経由でポーランドの首都ワルシャワに入り、同15日にウクライナの首都キーウへ。
5月16日の初訪問に続き、5月21日に再びブチャへ足を踏み入れた。
◆2度目のブチャ。
ウクライナ・ブチャへの最初の訪問時、学校の子供たちにもっとラグビーを教えてくれとの声があり、今回、再度ブチャを訪れました(【長澤奏喜のRWCチャレンジ2023 #1】は、こちら)。
しかし、約束の時間になっても子供たちは現れません。前回の時に拙い英語とウクライナ語でしどろもどろと会話していたこともあり、仕方ないと思いました。トボトボと街を歩いていると、黄金色に輝く屋根が見えました。
「何だろう?」
好奇心から自然とその場所に足が向いていました。
◆ブチャの教会。
そこはいつしかテレビで見た光景でした。
聖アンドリア教会。
この場所には400人もの民間人が埋葬されています。先日、ウクライナを訪れた岸田総理もここを訪問し、黙とうをささげました。
石が無機質に積み重ねられ、祭壇にはぬいぐるみが置かれ、老婆が祭壇に向かって祈り続けている様子を目にしました。
隣接している教会は、最初は閉まっていました。
しかし、ラグビーボールを抱えていた僕の姿を庶務のスタッフが見て、特別に開けてもらい、司祭を呼んでもらいました。
中はウクライナのキリスト教、東方正教会のきらびやかな宗教絵画は撤去され、虐殺を受けた時の写真が半円状に並び、他の教会とは異なる質素な内装になっていました。
一枚一枚の写真は心を痛めるほどの酷さ(むごさ)を伝えています。そして、その写真の場所が先ほどまで僕が歩いてきた風景と重なるのです。
遠くから見ると白く美しい教会でしたが、よく見ると建物の外壁には多くの弾痕が残っていました。
◆司祭の思いを託してもらったラグビーボール。
司祭からは次のような言葉が寄せられました。
「ロシア軍はこの地でありとあらゆる戦争犯罪を犯しました。私たちはそれを決して忘れることはできません。この地で起きた出来事を風化させないでほしい」
僕がブチャを2回目に訪れたタイミングは、広島で行われたG7サミットと同じ日でした。
司祭もそのことを認識しており、「広島のようにブチャを再生の象徴としたい」と。
司祭の思いを紡ぎたいと思いました。
手に持っているボールにお祈りしてもらうことをお願いしました。幸いにも、快く受け入れてくれました。
僕がその場を離れようとした際、地元・ブチャの2組の家族が外で待っていました。彼らは新しい命に対して司祭の祝福の祈りを求めに来ていたのです。
弾痕の傷跡がまだまだ残っているその場所で、彼らの顔には満面の笑みが広がっていました。
戦時下であっても着実に前に進んでいるブチャの人々に畏敬の念を抱きながら、僕はその場をあとにしました。
◆ウクライナ軍の検問で助けてくれたのはラグビーボール。
バスで帰宅途中、ブチャとキーウの境目の検問所にバスが止められました。ウクライナ軍兵がバスの中に入り一人一人のIDをチェックし、僕のような外人はパスポートが必要です。
しかし、僕はパスポートを宿のロッカーに置いてきていました。身分を証明できない僕はバスから降ろされ、バスはそのまま去っていきました。
「どうしよう!?」
途方に暮れて立ちすくんでいると、近くにある検問小屋に連行され、ウクライナの兵士から取り調べを受けることになりました。
彼らはウクライナ語しか話せず、僕もまったく理解できませんでした。お互いに戸惑っていました。
僕はバッグから身元を証明するものを取り出そうと必死でした。スマートフォンや財布、その中に入っているクレジットカード、日本の運転免許書…。「読めない」、「公的ではない」とのことでダメでした。
額から汗が流れました。
最後に取り出したのが、奥に入っていたラグビーボールでした。
それを見たウクライナの軍兵の厳しい表情が一瞬、「なんで!?」と言わんばかりに和らぎました。
そして、スマートフォンの中に保存されている過去の冒険の写真と照らし合わせながら、身振り手振りで自分がどのような活動をし、なにをしにここに来ているのかを説明しました。
結果、なんとかその場を切り抜けることができました。
以来、僕はパスポートを常に持ち歩くようになりました。
ラグビーボールを使って身分証明をしたのは後にも先にも僕がはじめてなのではないでしょうか。