【ラグリパWest】開きはじめたラグビー人生。竹中太一 [三重ホンダヒート/バックスリー]
たいちの夢、トップチームでプレーする、は現実となりつつある。
竹中太一は2か月前、三重ホンダヒートに来た。その前は宗像サニックスブルース。自身の所属はリーグワンの三部から二部に上がった。今はディビジョン2にいる。
「ここにいることは奇跡やと思っています。チームにはめちゃめちゃ感謝しています。本当に。何がどうなって選んでくれたんやろか。もっとほかに選手おるやろ、って感じです」
冗談を飛ばしながらも、その双眸はギラつく。野生味あふれる。今の若者に少ない。
バックスリーとしての強みはそのラン。ウイングやフルバックの位置からスキーのスラロームよろしく、ぐにゃぐにゃ走る。そこに、173センチ、80キロとは思えない体の強さも加わって、人を弾く。小野澤宏時に似る。「ラバーマン」(ゴム男)と評されたウイングは日本代表キャップ81を誇る。
竹中のいた宗像サニックスは今年5月、28年の活動を終える。リーグワンのディビジョン3所属だった。竹中はわずか1年でプレーする場を失う。
「廃部になってびっくりしました。でも、自分はプロ契約。結果が出なければ、1年で切られることもありえます」
身の振り方を考えていた時、三重ホンダから話が来た。バックスリーが手薄になった。元7人制日本代表だった生方信孝は34歳で引退。尾又寛汰は東葛に移籍。藤崎眞樹はプロ選手を目指し退社した。
おのれの力を頼みとし、ラグビーにかける情熱は人一倍ある。無所属の2か月間はフリーターだった。
「魚は三枚におろせます」
夜勤の魚市場とコンビニをかけ持ちする。実家のある大阪で生活費を稼いだ。
「声がかからなければ、もう一度、ニュージーランドに行こうと。それでダメならラグビーをやめるつもりでした」
2019年末に会社員をやめ、翌年3月、南半球に渡っていた。しかし、コロナの爆発で、1か月で帰国せざるをえなくなった。
2年前に描いたシナリオは海外で評価されての「逆上陸」。それを再度考えていた。ただ、自分の選手としての旬も分かっていた。クリスマスが来れば27の年になる。
人生をかけるこの競技を始めたのは岬ラグビースクールである。6歳の時だった。
「いとこの父に誘われました」
いとこは同学年の本田晋太朗。今、横河武蔵野のナンバーエイトである。
高校はその本田とともに石見智翠館に入学する。大阪から島根へ西に下る。
「スクールの先輩が行っていました」
3年冬の全国大会、通称「花園」は93回大会(2013年度)。3回戦で報徳学園に敗れる。20−20と同点もトライ数は2対3だった。竹中はスクラムハーフだった。
関大は誘ってもらえた。1923年(大正12)創部の古豪において歴史の創造者になる。2年時には47大会ぶりに大学選手権に出場。プール戦で法政を29−24で破り、5回目出場で初勝利を挙げる。52回大会だった。
4年時には同志社に勝つ。
「大雨の中、ロースコアでした」
14−5。この同志社からの白星は関西リーグにおいて、1963年以来2回目だった。この54年前、関大は同志社と同率ながら唯一となる関西制覇をしている。
社会人で競技を続ける希望は、体の小ささや中央では無名だったことなどに阻まれる。就職はラグビーとは関係のない西川ゴム工業。社業の関係で1年目は広島、2年目に名古屋に移る。ここで名古屋クラブに入った。
「クラブチームですが、想像以上に強くて、そこでそれなりにできました。そうするとラグビーが楽しくなってきた。仕事は40、50歳になってもできるけど、ラグビーは今しかできない、そう思うようになりました」
ニュージーランドでは1か月の滞在だったため、「逆上陸」にはほど遠かった。最初のバイトのかけ持ちは帰国後である。コンビニやゴルフ場で働き、機会を待った。
昨年9月、宗像サニックスのトライアウトの話が舞い込んだ。
「スタンドオフ限定だったのに、タクローさんが、できます、って話を通してくれました」
関大監督の森拓郎はこのチームのOBでもある。もがいている教え子なんとか押し込んでやりたい親心があった。
「ごまかし、ごまかしやりました。プレシーズンマッチは20分しか出なかったので、試合の組み立ては見られませんでした」
内定をもらい、サクセス・ストーリーが始まった。社会人2チーム目、三重ホンダには満足している。
「いいチームに呼んでもらえました。選手がみんなめっちゃ仲がいいです」
鈴鹿という郊外にあるチームのため、家族的な一体感が出るのだろう。
今、竹中は仕事もこなす。車のエンジンを組み立てるラインに入っている。
「カイトさんなんか、めちゃめちゃ頑張っています」
森川海斗は34歳のセンター。日本代表キャップ1を持つ。業務では部品調達をする。竹中はプロ志望ではあるが、仕事と両立させる姿にも格好良さを感じ始めている。
「チームとしての目標はディビジョン1(一部)に上がること。個人的には公式戦の半分以上をスタメンで出たいです」
大学を卒業したのは4年前の3月。苦労を重ねながら、そのステージを上げてきた。ただ、本当の勝負はこれからだ。フリーターの時期を忘れず、努力を怠らないような日々を過ごしてゆきたい。