【ラグリパWest】3年目の秋。瀬川智広 [摂南大学/監督]
3年目の秋を迎えた。
瀬川智広は摂南の監督になり、大学生たちを教えている。この10月で52歳になる。
「目標は大学選手権に出ることです」
そのためには、じき開幕する関西のリーグ戦で3位以上に入らなければならない。
東芝(現BL東京)や男子7人制日本代表を指揮した瀬川が、この大阪にある大学に赴任したのは2020年の4月だった。自身の母校は大体大。里帰りのようなものである。
同時期、世界にコロナがまん延する。この夏、3年目で初めて夏合宿ができた。チョコレート色に日焼けした表情が緩む。
「よかったです。ウチにはクラブの寮がありません。その状況の中で、集団生活ができました。4年生は模範になるよう、積極的に行動してくれました」
合宿は8月15日から12日間。長野の菅平に上がる。最上のAチームは関東勢と2試合を組んだ。今年、リーグ戦の一部に復帰した立正には24−35。同じ一部の関東学院には84−33。1勝1敗で高原を下りた。
夏合宿を含め、3年目に注力してきたことを口にする。
「ディフェンスですね。ウチはアタックに関しては爆発力があります。でも、同じくらい失点もあります」
外国人留学生はFW第三列のヴィリアミ・ルトゥア・アホフォノら6人を数える。攻撃は計算が立ちやすい。
「ディフェンスはコミュニケーションを言い続けています。組織で守る。例えば、内に入られたら知らない、ではなく、ちゃんとキャッチアップする。ボールが取れるなら入る、難しければ次に備える、ということですね」
夏合宿の2試合を見れば、即改善とまでは言えないが、気持ちは変わって来ている。
「ある程度、形にはなってきていると思います」
守備力を軸に選手の試合起用を考える。
FWはAとBチームがゴール前の攻防を繰り返す。その前8人の強化に、今年はうってつけの人材を得る。永山宜泉(ぎせん)。昨年は母校である同志社を教えた。
「FWは任せています」
瀬川と永山は同期。学生時代、スクラムハーフとフッカーとして対戦している。
永山は就職したワールドで日本代表レベルに育つ。その経験をベースにして教える。スクラムを30秒キープさせる。その中で、高校時代は「押しなし」の世界に育った選手たちが適正な体の使い方を覚える。
瀬川は正しい積み上げの大切さを言う。
「1や2しかない学生に、代表やリーグワンなどの7、8を教えても無理です。ギセンはその3、4を教えてくれています」
両手を地面について、顔を上げ、腰を落とす「カメ」あるいは「ハイハイ」は普通。50メートル往復で体幹が鍛えられる。
永山は和菓子屋の経営者だ。朝3時に起き、製造や営業を済ませてから、夕方の練習に来る。摂南は店から車で10分強の場所にある。「週2回」の約束が今では毎日になった。永山をもらい受けるにあたり、総監督で体育学の教授でもある河瀬泰治は同志社の重鎮OBに挨拶に出向いている。
瀬川は永山以上のトップレベルの指導経験がある。東芝の監督は2期6年。2008、2009年度は連覇をする。リーグワンの前身のトップリーグだった。2016年はリオ五輪の男子7人制日本代表の監督として、4位入賞を果たした。そのすべてを摂南に落とし込む。
摂南の創部は1976年(昭和51)。開学の翌年だ。今では薬学や多くの部員が籍を置く法学など8学部の総合大学になった。創部の10年後に河瀬が監督として着任。強化が始まる。河瀬は現役時代、FW第3列として日本代表キャップ10を持つ。瀬川は社会人の後輩になる。当時のチーム名は東芝府中だった。
47年目の部史の中で、大学選手権の出場は2回。初出場の45回大会(2008年度)は最高位の2回戦敗退。帝京に7−55だった。関西リーグの最高は翌2009年度の3位。瀬川の初年2020年は6位。昨年は7位だった。
瀬川は教員でもある。体育学の准教授。練習終わりには単位取得が思わしくない部員と面談する。人工芝の上に差し向かいに座る。
「7時30分から朝練をしていて、どうして午後の授業に出られない?」
友達の部屋で休ませてもらっていると、なんか外に出たくなくなります。
頭ごなしに叱らない。自分もそんな時があったなあ、と。でも、それを越えていかないと、明るい未来は見えてこない。自分は経験した。教え子たちもそうなってほしい。
3年目の開幕戦は9月18日。近大と花園第一グラウンドで対戦する。キックオフは12時30分。相手は昨年の2位チームだ。
「楽しみです。そんなに甘くないだろうけど、チームの雰囲気はいい。今まで以上にまとまりは出てきています」
青基調のジャージーを高みへ導きたい。それは単にラグビー部だけの問題ではない。開学以来、連綿と輩出している卒業生や関係者のためでもある。
「摂南を出た人たちが、応援してくれるようなチームを作りたい。卒業生が戻ってくれるようなですね。そこが一番。いつも河瀬先生と話をしています」
もちろん、今を生きる学生、そして部員たちのためであることは言うを待たない。