コラム 2022.06.03

【ラグリパWest】心までも訳する。前田啓子 [花園近鉄ライナーズ/通訳]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】心までも訳する。前田啓子 [花園近鉄ライナーズ/通訳]
花園近鉄ライナーズの通訳としてクウェイド・クーパーやウィル・ゲニアら外国人や帰化選手の言葉をその心に寄り添って転換してきた前田啓子さん。リーグワンのディビジョン1(一部)昇格の功労者のひとりと言える



 通訳は逐語的に、そして、間違いがなければよいのではない。前田啓子は言う。
「単に言葉の置き換えだけではなく、心を通わせることも必要だと思います」
 その黒い瞳からは大和なでしことしての意志の強さが伝わって来る。

 所属する花園近鉄ライナーズはディビジョン1に昇格した。前田はリーグワン一部への道筋をつけたひとりである。

 20年ほど前、通訳養成学校では、「空気のような存在」になることを叩き込まれた。
「自分の意志や感情や判断を入れない」
 自我を乗せれば、仕事がややこしくなる。今、その教えを突き抜ける。
「発言者の表情、声のトーン、間、それらによって伝える内容は変わります。そこには性格や育ちなども加わります」
 前田の感性を通して、対する訳が生まれる。そして、真意が言葉に宿る。

 このチームの中心はウイル・ゲニアとクウェイド・クーパー。豪州出身のハーフ団である。代表キャップは110と75。クーパーはリーグのプレーヤー・オブ・ザ・シーズン賞に輝いた。影響力の大きい2人を含め、練習中は外国人選手の後ろに立つことが多い。

 プロたちはミスに厳しい。他人のミスでも、それが敗北につながれば生活の糧を失う。
「若手がキレられ、委縮する現象が起こったりします。その時に訳さない、その若手に寄らないのは違うと思います」
 品のない単語が飛び出してもその意図を補完して変換する。練習後はその若手と連れ立って3者で話をする。分断をさせない。

 キレるのはやみくもではない。ミスが出る状況は理解している。このチームには社員選手たちがいる。
「彼らは仕事をこなしてから来ている。そのことを忘れてはいけない」
 アマとは立場が違う。その認識を持っていることは覚えていてほしい。時には自分自身の不甲斐なさを責めていることもある。

 前田はすでに、「守破離」(しゅはり)の領域にいる。守=教えに従い、破=他流を学び、離=自分の流派を立てる。武道や茶道で名人が達する境地だ。

「チームのためであれば、通訳の職域を超えて介入してもいいのかな、と思っています」
 水間良武は「チーム・ファースト」を打ち出した。昨年、ヘッドコーチにつく。その方針を受け、時間があればジャージーの準備やビブスの洗濯、求めに応じてオイルを使ったマッサージなども選手たちに施す。

 それらの行動の源になる英語力はエクセレント。TOEICのスコアは満点の990。この検定の満点は全受験者中の0・3%と言われている。前田は帰国子女。両親が外資系企業にいた関係で高校が終わるまで3回、計7年を米国で過ごした。

 大学は大阪外国語(現・大阪大外国語学部)に進んだ。そこでは英語ではなく日本を軸にした国際文化を学ぶ。語いの増加は通訳としての幅を広げる。「Preparation」は準備と訳されるが、そのフィールドが料理なら、「仕込み」や「下ごしらえ」の方がスマートである。

 学生時代は休みのたびにバイクに乗って、この国を旅した。
「日本を知りたい、と思いました。1日で福島の郡山まで行ったこともあります。特に好きなのはその東北。人が穏やかです」
 このなでしこは行動的でもある。

 卒業後は民間の教育機関に3年在籍した。並行して通訳の勉強をする。独立して働いていた2008年、最初にこのチームに来る。
「加古川で神戸に勝った試合、ウォーター(給水係)をしていました」
 2010年度のシーズン、神戸製鋼を25−22で降した。リーグワンの前身であるトップリーグだった。2003年から全国統一のフォーマットになっての白星はこれきりである。

 5年在籍のあと、一度離任した。直後、その神戸から誘いが来る。ミスターラグビーこと平尾誠二と交渉をした。
「行ったとたんに妊娠しました」
 神戸の通訳になったのは2013年4月。翌年5月、双子の男の子を出産する。
「大きいお腹でギリギリまでやりました。呼んでくれたチームに申し訳なくて…」
 平尾は優しかった。
「おめでたいことや。子供が無事生まれたらパートでもええから戻ってきてや」
 前田の能力や姿勢を高く評価していた。

 平尾は出産の2年後に世を去った。近鉄から再び声がかかったのは2019年。当初は来日間もない選手への日本語教師をつとめた。昨年9月からフルタイムになり、グラウンドに立つようになった。子供はさらにひとり増えた。息子が3人になった。

 前田は母、妻、通訳として生きている中、ミッションめいたものを感じている。
<この業界は女性が仕事を続けるのは大変です。家庭・子育てとの両立ができず、どちらかを諦めてしまっている人がほとんどです。私はこの業界で仕事をしたい、続けたいと思っている女性たちに夢を与えたいのです>
 メールには心中が吐露されてあった。

 今、明確に口に出せる。
「仕事は楽しい」
 夫の献身があり、育児をしながらも現場におれる。専業主婦に比べれば、毎日何かしら事件が起きる。でも良いことも悪いことも含めてすべてがエキサイティング。外界とのつながりの中で自分の生をより実感する。
「お金じゃない。ここに戻れる幸せ。ありがとう、です。だいぶん謙虚になりました」
 幸福感はジョークに形を変える。

 世の多くの同性にも、「いいとこどり」の僥倖に浸ってほしい。それは難しいことではあるが、周囲のサポートがあれば不可能なことではない。私もできている。あなたもきっと…。それを示すためにもさらに前に進む。

 前田のその挑み続ける姿は、半世紀近く離れた日本一を目指すチームにとっても、またふさわしい人間像であることに違いない。


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