【ラグリパWest】奈良からラグビーのために生きる。田仲功一 [奈良県ラグビー協会前副会長]
田仲功一は約束の天理駅に自転車でやってきた。電動機がついている。
最近、奈良県ラグビー協会の副会長を下りた。笑みに満ちた丸顔、柔らかい視線を向けて、その理由を話す。
「常々、言うてました。自転車に乗って、自力で白川グラウンドへの坂を登れんようなったらやめる、ってね。もう、ヒザがパンクしますわ」
駅舎から北東の丘陵にあるグラウンドでは、天理大のラグビーを含め3クラブが活動している。監督の小松節夫は田仲を「こういち先生」と呼ぶ。天理高の後輩にあたる。
田仲は喜寿を迎えた。15歳からこの街に住む。大学の4年を大阪で終え、母校に戻る。1967年(昭和42)だった。事務職、コーチの二役をこなし、同時に県協会の書記も任された。
「当時、協会の事務局は高校の中にありました」
時の流れとともに、理事長から副会長に進む。その長さは半世紀を超えた。5年前には文部科学省の「生涯スポーツ功労者」として表彰を受けた。
「奈良県の活動を大きくしたい。その夢は大学が日本一になってかなえてくれました」
小松が率いる漆黒軍団は、57回目の大学選手権(2020年度)で頂点に立った。決勝で早稲田を55−28で破る。
普及にも力を入れる。県協会に入って8年後、生駒少年ラグビークラブができる。子供たちが楕円球を追う場所が県内に初めて誕生する。スクールの数は今や8になった。
「北畑さんなんかが献身的にやってくれて、今日の隆盛が築かれました」
北畑幸二は日本ラグビー協会における普及育成委員会の小学校部門長でもある。
田仲が生まれたのは県南部にある吉野。桜が全国的に有名な場所である。
「江戸時代には名字帯刀が許された家でした」
武士と同じ扱いを受ける。十津川の郷士たちは、この吉野を分け行った山塊から出て来た。皇臣となり明治維新の一助になる。
生家は天理教を信奉する。布教をする祖父について大阪に移る。小中時代を過ごし、天理高でラグビーをすることに決める。
「母の弟、坂本正治の影響です」
叔父は天理から立命館大に進み、近鉄に入った。太平洋戦争が終わった翌1946年、主将をつとめる。スタンドオフだった。
高校入学は1960年。その時の体つきは168センチ、68キロだった。
「フロントロー、1番に入りました。先輩から、『重いな』と言われました」
寮生活で覚えているのは食べ物のこと。
「麦飯に菜っ葉や大根、肉気のものはありません。学期に1回くらい、試合に勝ったらすき焼きが出ました。それがごちそうでした」
麦飯は腹にたまらない。10キロほどの山道を走る中、空腹で倒れた同級生もいた。食料事情の悪さは体格に反映されていた。