コラム 2021.09.17

【ラグリパWest】苦悩を超えて。野中翔平 [花園近鉄ライナーズ新主将/フランカー]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】苦悩を超えて。野中翔平 [花園近鉄ライナーズ新主将/フランカー]
ワンリーグ元年、花園近鉄ライナーズを率いることになった野中翔平新主将。高校時代の成功と大学時代の失敗を糧に、チーム作りに着手する



 高校、大学、そして社会人でもキャプテンになった。すんなり3つのカテゴリー、ではない。今回は葛藤があった。

 花園近鉄ライナーズは9月2日、アナウンスを発した。野中翔平が主将に就く。この11月で26歳になるFLである。

 打診は新ヘッドコーチ(監督)になった水間良武からだった。同志社の先輩である。
「正直、うーん、という感じでした。代表に選ばれたり、世代のカテゴリーに入っていた訳でもありません。力不足だと思いました」
 代表歴は関西学生のみである。

 一方でチームを見る。自身、所属4年目に入ったが、一度もトップリーグで戦っていない。勝ちたい、という思いは強かった。

「降格が卒部式と重なりました。午前中はみんなが、『頑張れ』と言ってくれましたが、夜は『おつかれ』に変わりました」
 2017年度の最終戦、近鉄はNTTドコモに13−21。最下位16位が決まり、トップチャレンジに自動降格する。

 この4年時、野中は苦い思い出が残る。部員の信任を軸に主将についたが、関西リーグは6位。3勝4敗で関西学院、関大と並ぶも、両校に14−21、5−14と負ける。優勝42回を誇る同志社の6位は2回、7位は1回。終戦の翌1946年、関西の大学ラグビーが再開されてからの記録である。6位はワーストに近い。無力感にさいなまれた。

「仰星って全員でやる。戦術をバチっと決める。それで優勝しちゃった。これが『正しい』とチームに持ち込んだ。ラグビーはこうでしょう、と。そして、頭を打ちました」
 野中の日焼けした柔和な顔はゆがむ。

 同志社へ行く前は東海大仰星に通った。高1からNO8でレギュラー。3年時には先頭に立って全国優勝を呼び込む。93回大会(2013年度)は決勝で桐蔭学園に19−14。同校3回目の頂点だった。仰星は決勝前日でも、普段と変わらず、中等部を含めた150人以上の部員で同じ練習をした。

 同志社に成功体験を持ち込んだ。そして、6位という現実を突きつけられる。仰星時代の恩師・土井崇司はその理由を推測する。
「野中は熱過ぎたのでしょう。熱いことは大事。でも、彼の当時の熱さは仰星でしか通用しない。大学生は勉強も含め、遊びや異性にも目が向いてしまいますから」
 ラグビーに一途になれない者を許容できなかった。結果、孤高の人になる。

「大学の時は、全員でやろう、と言って、ほんまにやってたんか、と思います。あの時の不満や悲しみを浮かべた部員たちの顔が今でも浮かぶことがある。結局、正解なんてわからない。成功を重ねて、正解にしていくことが大事なんじゃないかと今は思います」

 その挫折を経験しても、ラグビーは「全員でやるもの」と信じる。
「近鉄の1年目、メンバー外の席で試合を見ました。選手がミスをしたら笑う人がいた。チームがひとつではありませんでした」
 新人時代、恥部を見る。

「試合に出られなかったら悔しい。その感情が大半を占める中でも、メンバーやチームを応援する気持ちがないといけない。メンバーも出られない人たちの応援を引き出すプレーが必要です。そういう中に充実感がある。それがないと勝っても意味がありません」

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