海外ドラマに憧れニュージーランドで進化 藤井達哉はNEC移籍で「早くチームに慣れる」
あの頃の気持ちを福岡の方言で表す。
「出らんといかんなぁ」
好きなチームを離れるのは簡単ではなかったと、藤井達哉は振り返る。
所属先の宗像サニックスが強化を縮小すると聞いたのは、昨季のラグビートップリーグが終盤に差し掛かった頃だ。
かつては父の雄一郎氏が指揮を執っていたチームとあり、前身のサニックス時代からチームに愛着があった。だから、当初はどんな決断が下されても残留を望むつもりだった。
しかし前途洋々なSHは結局、移籍もやむなしと決断する。
来季新設のジャパンラグビーリーグワンで、宗像サニックスが「3部」にあたるディビジョン3に振り分けられることは、自身の退団発表後の2021年7月に正式に決まる。
「出らんといかんなぁ」
知らせを聞いた時の心境を、藤井はこう振り返る。
「最初は全然、残るつもりでした。むしろ、宗像サニックスは好きだったので残りたかったです。でも、(当時は)皆、感情的になっていた。よく考えてみたらここで出らんといかんなぁと。その(縮小が伝えられた)時には、もう『3部かもしれん』みたいになっていたので」
移籍先にはNECを選んだ。
新天地では、元オーストラリア代表ヘッドコーチのマイケル・チェイカがディレクター・オブ・ラグビーとなったばかり。藤井は古巣の同僚で元オーストラリア代表のパディー・ライアンに、チェイカの人間性についていい意見を聞いていた。それと前後してチェイカ本人と話し、より前向きになれた。
「本当にすごい人だけど、他人を下に見ない。たぶん、皆を平等に見ている」
素直な感覚を持っている。
ラグビー少年になって久しかった中学時代、学校の陸上部を辞めた。下校後に何もしないことを家族に問題視され、部活の代わりに始めたのがボクシングだった。同じジムへ通うインパクトのある大人とも仲良くできた少年は、東海大福岡高を卒業した2018年、ニュージーランドへ渡った。
「(動機としては)ラグビーを…というより、中学生の頃から海外生活がしてみたかったことが大きかったです。僕、『glee』という学園ものの海外ドラマが好きで、ちょっと(そのような空間に)行ってみたいなって。(家族の反応は)とりあえず(日本の)高校へ行き、それでも(海外へ)行きたかったら行け、みたいな感じでした」
現日本代表ヘッドコーチのジェイミー・ジョセフの息子も卒業したという、ジョン・マクガラシャン・カレッジへ1年間、通った。卒業後は語学学校へ通いながら、現地ハーパーホークスのプレミアチームでプレーした。その間、スーパーラグビーに加盟するハイランダーズの18歳以下チーム、19歳以下オタゴ代表にも選ばれた。
「夕方まで語学学校に通って、18時くらいから練習があった。(現地クラブは)こっち(日本)の大学よりもレベルは高いです。フィジカルも強いし。(自身は)臨機応変に対応できる能力、試合の組み立て方について学べました」
大好きな地元のクラブから誘われたのは、ちょうどその頃だった。当時、宗像サニックスのヘッドコーチだったコーリー・ブラウンから、帰国と契約に関する話を聞いた。
そのリクエストに応じてまもなく、ワールドカップ日本大会に触れることとなった。日本代表がスコットランド代表に勝った試合は、神奈川・横浜国際総合競技場で現地観戦できた。
「やっぱ、知っている人も結構いるから、楽しかったです」
日本代表では父が強化委員長(現ナショナルチームディレクター)、父と親交が深いジョセフがヘッドコーチを務め、メンバーには宗像サニックスにいたジェームス・ムーアが名を連ねていた。
特にLOとしてタックルし続けた現NTTコムのムーアに、藤井は感銘を受けた。本番の姿と普段とのそれにギャップがあったからだ。
「いつもはおちゃらけている感じだけど、ジャパンに行ったら一味違いますね。なんか、殺気立っていますね」
なじみの深い青のジャージィを着てトップリーグに挑んだのは、諸事情で中断した2020年、感染症で短縮化された2021年の計2シーズンだった。そのうち初年度には、19歳10か月10日でトップリーグ最年少トライ記録をマークしたものだ。
身長164センチ、体重64キロの21歳は、熟慮の末に新しいリーグを新しいチームで戦うことにした。未開の地を切り開くのには慣れている。この夏に言った。
「とりあえず、早くチームに慣れて、1試合でも(多く)スタメン狙えるように、また練習していかなきゃな、と思います」
千葉の東葛地区で再出発した。