【ラグリパWest】40年前。思い出は鮮やかに。
乗り換え手続きを一緒にしてもらって、無事にクライストチャーチに着きました。ディック・ホクリーさんらの出迎えを受けます。この留学の世話をしてくれたホクリーさんは、同志社の大学3連覇にスポット・コーチとして貢献します。連覇は西條監督が留学した翌1982年度から始まりました。
ホームステイ先は閑静な住宅地のシャーリー。ホストは3兄弟。彼らとシャーリー・ボーイズ・ハイスクールに通います。
「当時はアバウトでね、日本語と体育の授業だけ顔を出して、あとは図書室で英語の自習をしてました。授業が終われば、週3日のラグビー部の練習に顔を出してました」
ホームステイ代も家族は受け取らず。
「それがホームステイ、と言われたけど、申し訳ないんで、食費は払ったと思います」
夕食は肉、マッシュポテトなどが1枚の皿に乗るワンプレート。昼食は冷蔵庫にあるものでめいめいがサンドイッチを作っていく。質素や子供の家庭内独立を知ります。
校内には技量によっていくつものラグビーチームがありました。西條監督はファースト・フィフティーンと呼ばれる一軍に入ります。試合後のアフター・マッチ・ファンクションの慣習もその時に知ります。
「ファンクションはレフリーが感想を言って、両チームのキャプテンの話に続きます。驚いたのは出席したコーチたちは何も言いませんでした。高校生に任されていました」
ここでも自主性を感じます。
ファンクションの本番は実はそのあと。
「公民館のようなところにメンバーが集まって、その彼女なんかも来たりして、ダンスパーティーのようなことがありました」
アルコールが出たかどうかはさだかではありません。車で移動している時に、同乗者がサイドブレーキをかけ、スピン。びっくりしたのに、みんなは笑っていました。
オークランドに定期戦で渡ったあと、帰りはホストブラザーとバスで北島を縦断し、南島に戻りました。泊まりは1日目=ガレージ(車庫)。2日目=離れでした。
「そんなとこで寝たことないし、2泊目は普段使っていないから、ほこりがもうもう」
雨露がしのげればいい、という言葉や人はどこでも寝られることを知ります。
思い出をたくさん持って西條監督は半年後に帰国。次の春に法大に進みました。社会科の教員免許を取り、教員として1997年、母校に戻り、ラグビー部監督につきました。
そして、四半世紀が経ちました。ある強豪大学の強化担当者は言います。
「報徳の子は楽しそうにラグビーをやっている。だから上で伸びる子が多い」
その底には西條監督が感受性豊かな10代を南半球で過ごした幸せがある。鮮明な記憶はその表れでしょう。
報徳学園の新入部員は38人。3学年で104人になりました。この数字は1952年(昭和27)の創部以来70年目で最多。「すべての経験は振り返ればつながっている」。そのことが示されている気がしています。