コラム
2020.07.30
【コラム】喧騒の中に。
「闘争の倫理」の根幹はその先にある。「人間の持っている本性を、勝負のなかで露わにし、それを人間はどういうふうにコントロールしていくべきかということを身につけるのが、スポーツ教育の目標のような気がしている」。
闘争心がもたらす激しいタックルと、相手を傷つけてでも勝とうという執着から生まれるラフプレー。平時に両者を区別することは簡単でも、試合の興奮状態の中だとその境目が次第に曖昧になっていく。非常時に倫理的な行動を選び取れるようになることがスポーツの価値であり、ひいては平和の実現に役立つというのが大西の主張だった。
内田前監督の話からすると、当時の日大アメフト部の指導にこうした思想はなかったのだろう。そして、事件後に部を離れた宮川も競技に復帰しなければ、「闘争の倫理」をフィールドの中でもう一度考える機会を得られなかった。
そこで現在のコロナ禍に思いが及ぶ。今年、多くの学生がラグビーやアメフトをプレーする機会を損なわれた。「闘争の倫理」を学ぶ機会も減った。やむを得ないこととはいえ、大西が存命なら残念に思ったことだろう。
この日本ラグビー界の哲学者と似た発言を残したフランスの思想家がいる。昨年のワールドカップ開幕の3か月前に亡くなったミシェル・セール。少年時代からラグビーに親しみ、専門とする認識論では、ラグビーのボールと選手の関係を引き合いに多様性と単一性の間のダイナミズムを説いた。
晩年、フランスの元選手との対談で語った。「ラグビーには他にはないものがある。それは法を学べるということだ。暴力の極限まで行くことがあったとしてもやめなければいけない。特にレフェリーの前ではすぐに。ラグビーは私の法学校だった」。