国内 2020.06.07

答えは、「お前だから」。濱里周作(宗像サニックス)、故郷へ戻る。

[ 編集部 ]
答えは、「お前だから」。濱里周作(宗像サニックス)、故郷へ戻る。
体も心も強いプレーヤーだった。(撮影/BBM)



 34歳。濱里周作が宗像サニックスブルースでのプレーを終え、故郷・沖縄で新しい仕事に就く。
 知人が縁をつないでくれたお陰で、建設会社への就職が決まった。
「お前だから紹介できる。そう言ってもらえました。ラグビーをやって良かった」
 13シーズンに渡ったトップレベルでの生活。自分がやってきたことの答えが出た気がした。

 トップリーグ通算77試合出場。ブルースでの公式戦キャップは112に達した。ハードタックラーとして知られた。
 2007年に入団し、1年目はFL。CTBを任された2年目から活躍の場を得て、もっとも記憶に残る試合のピッチに立つ。
 神戸製鋼に勝った。80分戦い続けた試合を「名門と戦うことができた。対等にやりあえた。すごいところにいるんだな、と嬉しくなった」と振り返る。

 チームのファミリー感が好きだった。
「勝っても負けても、プレーヤー同士でよく話す。意思疎通がすごく密でした」
 本当の家族とともにプレーできたのも幸せだった。濱里3兄弟の中で最初にブルースに入団。「兄(祐介)が入ってきて、すごくやりやすかった。それで、弟(耕平)も呼ばないといけないな、って思い、チームに『こんな選手いますよ』と」
 楽しかった。高め合った。

 兄のあとを追い、名護高校でラグビー部に入った。
 卒業後は消防士を目指し、地元で勉強を続けた。そのとき、トップリーグ入りを狙う某チームから声がかかり、トライアウトのようなものを受けるために数回グラウンドに通い、合格をもらうも、空気が合わないかな…と辞退した。
 地元・やんばるクラブでラグビーは続けた。名護市管工事組合に身を置いて、水道局への料金遅延者へ対応する仕事をしていたとき、クラブレベルでは突出している実力者を世に送り出したいと思っていたひとりがサニックス関係者に存在を知らせ、人生が変わる。
「いろんな人との縁があってラグビーをやってこれました」としみじみ話し、「ラグビーやって良かった」ともう一度言った。

 これまでも、これからも、酒席で口にするのは沖縄・伊是名島の泡盛『常盤(ときわ)』。酒造所が高校時代の同級生の実家だからという理由もあるが、「これと決めたら変えないタイプなので」と笑う。
 兄弟の中で、もっとも気が強かった。「衰えたと思われるのは嫌だったし、若手にも勝とうと思っていた」と、ベテランになっても、フィットネス練習では死力を尽くした。
 その姿勢には、「(試合に出るには)まわりの人より練習することが大事」というメッセージも込めたつもりだ。
 自分が先輩たちから教わった経験や知識を、後輩に伝えることもした。
「ポジショニングとか、ひとりでやり過ぎるのではなく、周りとコミュニケーションをとり、人をどう動かすかなど、龍二さん(古賀/現トレーナー)たちから教わったことを伝えたりしました」

 入団した頃、沖縄出身のトップリーガーは9歳上で、リコーに在籍していた友利玲臣(ともり・れお/コザ→流経大)と自分ぐらいしかいなかった。
 当時は試合に出られるようになることに必死で、あまりそれを意識はしなかった。でも、自分が活躍することでさまざまなつながりが生まれ、応援してくれる人が増えたことでパワーをもらい、故郷への思いが強まった。
 新しい仕事に全力を尽くす先には、やんばるクラブでプレーしながら、高校の後輩でもある銘苅信吾さんが運営するデイゴラグビースクールの活動もしたい。沖縄ラグビーの底上げに力を注ぎたいと考えている。

 13年間の宗像での生活を思い出し、「長くやった感はないですね。あっさり、終わったなー、と」。そう言って穏やかに笑った。
「まだできたとも思います。でも、最後の方はケガも多かったので、引き際だな、と納得しています。無名で大学にも行っていません。それでも採ってもらって、試合に出るまでたどりつけた。感謝しかありません。たくさん試合に出ました。でも、最後はそうでなくなり、チームに貢献できなかった。悔いが残ると言えば、そこですかね」

 土木作業に取り組む日々が始まる。
 資格を取って現場監督となる未来へ向けて、新たなチャレンジが始まる。
 多くの成功の中にも、ほんの少しの後悔を感じ取る責任感は、これからも人生を支えていく。

今年、35歳になる。愛称ハマちゃん。


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