コラム 2020.05.22
【コラム】変わる、変える。災後のラグビー

【コラム】変わる、変える。災後のラグビー

[ 谷口 誠 ]

 この翌週には、戦後初の学校対抗戦となる京大対三高戦も行われている。素早い「復活」は、他の地域や他のスポーツの人を勇気づけもしただろう。ただ、関東で初めてのラグビーの試合は11月にずれ込んだ。他競技でも野球や大相撲の本格的な再開はやはり11月まで待つ必要があった。京都のラグビーが先行して再開できた理由は何か。京大の部史が複数の要因を指摘している。

 大都市が米軍の大空襲を受ける中、原爆の投下候補地として「温存」されていた京都の被害は比較的、軽かった。スパイクなどの用具は焼けず、整備の担当者がグラウンドを良く手入れしていた。

 焼け野原になった東京などとは大違いだったし、同じ地域でも学校ごとの差が際立っていたようだ。旧制浦和高(現埼玉大)の部史を見ると、1945年はスパイクが全く手に入らず、「冬でも霜柱をハダシで踏んで走った」という。聞くだけでしもやけができそうな話。12月、戦後の初戦となる一高(現東大)戦に臨む。用具を備えた相手に対し、「泥濘の中でツルツル足がすべり、チャンスをものにすることもできず遂に完敗に終った」と記されている。当時の状況からするとやむを得ないが、公平な条件とは言いがたい試合だった。

 さらに京都が恵まれていたのが「食」だった。食べ物の確保が難しかったこの時代。慶大ラグビー部の、試合が近づいたある日の朝食は、ご飯1杯と味噌汁、千枚漬け3枚だったという記録がある。

 京都は食糧がまだ手に入りやすかったうえ、ラグビー部への支援も手厚かった。京大の場合は、応援してくれる地元の食堂がご飯を提供。大一番の前にはOBがすき焼きを振る舞った。友人の結婚式と練習が重なった部員に対し、「練習より披露宴で栄養を取った方が試合に役立つ」と主将が送り出したという逸話も残る。

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