「試合からいちばん遠くにいた」小林健太郎(キヤノン)のやりたいこと。
在籍3年。
2017年の12月には、同志社大学時代にも経験した右ヒザの前十字靭帯を再受傷したから、プレーできた時間はもっと少なかった。
キヤノンイーグルスのCTB、小林健太郎はトップリーグで活躍できぬままブーツを脱ぐことになった。
カップ戦には2018年11月のNEC戦で後半22分からピッチに立つも、リーグ戦への出場は叶わなかった。
でも、言い訳なし。
「トップレベルで3年やれたことは自分の中で誇りに思うので、ラグビーのプレーヤーとしての生活は、ここで終わりにするつもりです」
少年時代からの13年を振り返って思う。
「プレーヤーとしては大満足です。もっとできただろう。人はそう言うかもしれませんが、ここまでこられるとは思っていなかったので。出会い。感動。ラグビーを通していろんなことを経験しました。人生の中で、価値のある時間でした」
イーグルスで試合に出られなかった理由を「実力」と話す。
「自分のプレーに自信が持てなかった。長所や、これ、というものを持てなくなっていた。極める。貫き通す。その軸がなかった」
学生時代は、スピード豊かにタテに切って出るプレーが得意だった。しかし、例えばチームメートの南アフリカ代表、ジェシー・クリエルなど、インパクトあるプレーをする者は同じポジションにいくらでもいた。
「以前は通用していたフィジカルの部分が強みにならず、自信がなくなっていたかもしれません」
絶対に、ここでは負けない。他の人との比較ではなく、自分の中にそういうものを持つ。
いま振り返って感じるその思いを、若いプレーヤーには強く持ってほしい。
ラグビーは中学1年で始めた。横浜から函館ラ・サール中学校、同高校に進学したのがきっかけだ。
寮生活。仲間たちとともに勉強と楕円球に没頭した6年間は、自身の基礎を築いた。花園出場を重ねる後輩たちとは違い、まだ、階段を上る途中にいた。
「函館で負けることもある時代から始まりました。だから正直、花園、花園というより、留学生もいる(強豪校の)札幌山の手に勝つにはどうしたらいいのか。そればかりを考えていました」
3年生の時、チームは初めて花園予選決勝に進出した。敗れたものの、勉強との両立など制約のある中で、力を蓄えたことは自信になった。全員で同じ方を向くことで生まれるパワーを知った。
同志社大学時代には、自身がラグビーと関わる上で大切にする「貢献」の意識を強くした。
同期だけでも40人いた大所帯。全員がプレーヤーでは成り立たない中で、自分たちが最上級生になる頃いろいろ考えた。
「みんなでの話し合いの中で、プレーしたい思いを諦め、アナリストやトレーナー(への転身)に手を挙げてくれた仲間、その涙を見ました」
自分自身はラストシーズンの春に右ヒザの前十字靭帯を断裂。絶望感を感じたが、リハビリへの真剣な取り組みや、復帰を諦めない強い気持ちを示すことがチームの力の一部になると信じた。
必死な取り組みにより、半年と予想されていたリハビリ期間は4か月で済み、紺×グレーのジャージーは大学選手権4強にまで進出。
チームは、ピッチに立つ23人だけでは成り立たない。多くの人の情熱が絡み合った1年を過ごし、あらためて、そう思った。
競技生活を終えたいま、自分の歩んできた道で得たものをチームに返していけたらいいな、と考えている。
「選手でできなかったことをイーグルスに還元していかないと申し訳ない。チャンスがあるなら、バックヤードでチーム運営に関わっていきたい」と話す。
自分のことを「試合からいちばん遠くにいた存在」と表現する。
「そういう選手が、いちばん勝ちたいと思う。そういうチームって、強いですよね。そこにいた経験がある人間として、やれることがあると思っています」
競争を勝ち抜いた選手たちは称えられるべきだ。ただ、その23人だけでは勝ち抜けない。それは、カテゴリーに関係なく共通だと信じる。
試合に出ていない人たちがどれだけ頑張るかでチームは変わる。
この3年間でちょっぴり後悔するのは、「コーチ陣を含め、上の人たちともっと対話すればよかった」と感じることだ。
「プロフェッショナルな集団なので結果がすべて。それが前提ですが、やはり、見てもらえているかどうか伝わると、より頑張れる。みんなよくしてくれたので、僕はひとりになることはなかったのですが、それでも、(待つだけでなく)もっと自分から仕掛け、もっと話せばよかったかな、と思います」
誰も置いていかない。誰もが勝ちたい。
イーグルスがもっと高く羽ばたくために、自分だからできることをやれたらいいな。
26歳になったばかり。時間はたっぷりある。