国内 2018.08.28

それぞれの夏。花園へ続く熱。

それぞれの夏。花園へ続く熱。
練習試合の合間、木陰で涼む富田監督と帽子を着用した鹿実の部員たち
「将来的には沖縄が日本の避暑地になるのでは?」とも囁かれるほどの酷暑が続く、この夏。ドラッグストアでは各種スポーツドリンクに加えて、「飲む点滴」とも呼ばれる経口補水液の売り上げが絶好調で、品切れ状態らしい。
◆鹿児島実の日常。
 全国各地で過去最高の気温を叩き出す中、8月中旬、とあるラグビー合宿地へ向かった。
 鹿児島県さつま町の「かぐや姫グラウンド」。九州各県と沖縄の高校ラグビー部が対戦相手を求めて20校ほどが集う九州の合宿地の一つだ。
 駐車場のバスからグラウンドへの長い階段を登り切ったラグビー部員たちが口々に「暑っ!」っと漏らして空を見上げる。長崎から、宮崎から、熊本から来た生徒もそうだ。
 福岡からやって来て、合宿3日目を迎えていた東筑高校の部員が言った。
「やっぱり暑いです。北九州も、ここも。よくニュースで言ってる死者が出るほどの暑さってこういうことを言うのかなあって」
 午後からの試合に備えて続々とグラウンドに集結する各校の中に、全員が帽子を着用している一団がいた。地元の鹿児島実業だ。
「帽子を被るのは、今年の熱中症対策ですか?」
「いえ、毎年被ってます。普段の練習の時も、毎日被ってます」
 近年、中村亮土(現サントリー)、小瀧尚弘(現東芝)らの日本代表キャッパーや桑山聖生・淳生兄弟(共に早大)といった逸材を育て続けている富田昌浩監督は、熱中症対策について、こう語ってくれた。
「まずは帽子の着用を徹底すること。毎日、梅干しを食べさせること。練習中には塩分の入ったタブレットを用意しておいて、いつでも自由に摂取できるようにする。それから、15分間に一度は水分補給を兼ねて休憩を取るようにしています。あとは、トレーナーの方に合宿中の他に、土日にも練習をみてもらっています」
「菅平合宿などは考えたりしませんか?」
「いえ。今から菅平に登っても、マッチメイクやら、宿の確保、バスの手配も大変だと聞いています。そして何より、ここでは(長崎)北陽台さんとかとも毎年試合して、今年の課題が分かるし、ここで鍛えて秋に臨むのが、鹿実の伝統ですから!」
 自身の学生時代からこの地に通っている同監督は、キッパリと答えた。
◆宮古をラグビーアイランドに。

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沖縄本島での合同合宿、ミーティング中の宮古高校の部員たち

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沖縄合宿で猛烈に勧誘され、初めて試合に出場した女子マネージャー
 それにしても、東筑のラグビー部員の語っていた言葉が気になる。
 天気予報を眺めていると、沖縄県那覇市の最高気温はいつも32度止まりだ。
 旧知の指導者、沖縄本島のさらに南、宮古島の宮古高校でコーチを務めている細川明彦コーチに聞いてみる。
 名門・伏見工(現・京都工学院)から初めて早大ラグビー部の門を叩いたパイオニアだ。大学同期にはSH矢冨勇毅、SO曽我部佳憲、WTB首藤甲士郎ら錚々たるメンバーがいた。
「暑さですか? そりゃ夏だから涼しいとまでは言わないけど、いつもと同じです。京都の方が地獄でした。ここよりも3倍は暑かった。深呼吸したら、肺が熱くなって痛くなりましたもん。菅平も全然楽しくなかった。毎年10泊11日なんですが、初日と最終日以外はずっと午前は練習、午後はゲームです。覚えているだけで、佐賀工、仙台育英、久我山、東京、流経大柏などと試合をしました」
 早大進学後は、毎年のように膝のケガを繰り返してしまった。曽我部という絶対的な存在もいた。
 結局、最後まで赤黒のジャージィには手が届かなかった。ただ、授業には真面目に通い、昔からの念願である教職課程の単位は取得した。
 細川には、ある記憶がある。当時の後藤禎和コーチに誘われて沖縄本島の名護高校に向かい、コーチングの手伝いをした。都会っ子の細川にとっては新鮮な経験だった。
  卒業後、就職の決まっていなかった細川は、当時、名護高校を指揮して宮城博監督へ電話を掛けた。
 しばらくして返信が来る。しかし、その相手は、宮古高校に赴任していた辺土名斉朝監督からだったという。
「名護を倒したい!」
 当時、花園予選を突破していたのは、11年連続で名護高校だった。
 細川は南へ飛んだ。そして、そのコーチングを受けた宮古高校は準決勝で見事に名護高校を破る(2011年)。しかし、同校は決勝でコザ高校に惜敗する。惜しくも花園に辿り着く事はできなかった。
 その当時の琉球テレビの敏腕ディレクターは、その記録を密着取材した。番組の最終場面は、細川が勝って泣かせ、負けて泣かせた宮古のラグビー部員たちが空港でまた泣き、細川が見送られるシーンだった。
 約2年後、ニュージーランドでの留学を終えて舞い戻ったのは、京都でもなく、東京でもなく、また宮古島だった。
「とにかく宮古島の人たちのラグビーにかける気持ちが最高なんです。当時と違って部員も減ったんで、まずは普及からですね。その前に沖縄県の体育教員として採用されるのが先ですが」
 当時、釣りなどを教えた小学生が成人式を迎える年頃になった。
「目標は全然変わってません。宮古島から全国を目指します。そして、宮古島をラグビーアイランドにします。ここで一生をかける気持ちです」
「信は力なり」の精神を伝えていきたい。
◆高知中央、あの夏を超えて。

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霧の中、練習に取り組む高知中央部員
 私立高校の教師だって大変だ。
 高知中央高校に赴任している西川誠山部長の日課は、まず学校中の氷集めから始まる。運動部が盛んな同校では何か所かに冷蔵庫があり、西川部長は各部屋を訪れては「僕が掃除しますから」と言って冷凍庫を開け、氷を取り出しては新しく製氷トレイに水を入れて冷やす。
「給湯室みたいなところにあるバカでかい冷蔵庫」も、いつのまにか「ほぼラグビー部の専用機」と化することに成功し、ビニールプールや大きなポリバケツに水を張り、氷を入れてアイスバスをこしらえる。
 部員の身体を冷やすためだ。
「私が赴任した9年前の初年度も暑かったけど、今年はそれ以上でしょうか? アイスバスは毎年残暑対策として8月に用意していますが、今年は7月からフル稼動状態です」
 高知中央は、元日本代表の大八木淳史氏がGMに就任して、創部2年目で花園に出場を決めた。それがちょうど10年前。4年連続で高知県代表となり、「スクール☆ウォーズ」の再現として話題になった。
 その後大八木氏は学校を去り、まだ若かった梶山修平監督のサポート役として白羽の矢が立ったのが、西川部長だった。同部長は高校ジャパンの選手としてウェールズに遠征し、のちに高校ジャパンの臨時コーチも務めた経験もある。
 花園予選に3校しか出場していない高知県。西川部長は体育の授業に加え、ラグビー部の指導、そして、各小学校を回ってのタグラグビーの普及、毎日のブログの更新と、日々忙しく動いている。
 さらに、夏合宿の手配も部長の仕事だ。宿の手配、マッチメイクなど無駄のないように準備する。
 ある年は渋滞にはまってしまい、菅平から高知まで12時間以上かかってしまったことがある。部員と保護者に心配をかけてしまった経験があるため、今では梶山監督の母校である天理大学のグラウンドを借り、一泊して体調を整えてから菅平に通うのが恒例となった。
「今年の天理は暑かった。菅平も暑いという情報はありましたが、私たちが上がった時には、ひと雨降って例年通りの涼しさでした。むしろ、菅平名物の霧に、ちょっと悩まされたくらいです」
 高知中央には忘れられない記憶がある。
 3年前の夏、あるラグビー部員が水難事故で亡くなったのだ。運動能力が高く、何よりもバイタリティがあった。一般入試で入学してきた同じ1年生を「一緒に花園行こうぜ!」と誘い、そのおかげで部員数も増えた。その部員が7月、ラグビー部の友人と川遊びを楽しんでいた際に事故は起きた。葬儀には部員全員が参列したが、気持ちの動揺は激しかった。夏合宿を前にして、全員のモチベーションが下がった。「この状態でラグビーをするのは危険だし、無理かもしれない」と感じた首脳陣は、急遽、菅平合宿を中止にする。「ラグビーをしない遊びのキャンプ」に切り替えた。
 亡くなった仲間の同期は、一人も欠けることなく3年間を過ごした。それは、高知中央ラグビー部としては初めてだった。
「花園にまでは届かなかったけど、とにかく3年間、ラグビーを続けてくれた。ただ、その事実だけがうれしかった」
 西川部長は、今年のチームにも期待を寄せる。
「今年の合宿は初めて全勝で終えたし、まだまだ伸び代を感じる。秋が楽しみだね」
 初めて合宿を体験した者。2度目の経験者。ラストシーズンを迎える者。それぞれ、夏の感じ方は違うだろう。
 熱中症を患ったことがある者として言わせてもらうと、とにかく苦しい。暑さを我慢するほど、症状は酷くなり、回復にも時間がかかる。直射日光に当たるのが怖くなる。
 どうか、悔いの残らない夏を送ってほしいと切に願う。それぞれの夏があり、それぞれの秋を迎える。勝負は、あくまでも秋だ。酷暑を乗り越えられた君たちならば、絶対にやり切れるはずだ。
 どうか新装なった、ワールドカップ仕様の花園ラグビー場で磨き上げた渾身のタックルを見せてほしい。
(文/磯畑裕光)

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