コラム 2015.02.28

ラグビーの家。親子の距離。  田村一博(ラグビーマガジン編集長)

ラグビーの家。親子の距離。
 田村一博(ラグビーマガジン編集長)

 決断はインターネットを見て知った。その前日、息子は記者会見を開き、選手生活を終えることを発表していた。
「ちょうど、拓郎のニュースを見て驚いているときに携帯電話に本人から電話がかかってきて…ビックリしました」
 慌てて電話に出た母、箕内博子さんは言った。
「あんた元気しとっと?」

 ずっと気になっていた。2014-2015シーズンのトップリーグ、NTTドコモレッドハリケーンズの試合出場メンバーに箕内拓郎の名はいつもなかった。実力なら仕方ない。心配だけど、怪我でも受け入れるだけ。ただ、病気だったらどうしよう。妹や拓郎の兄・佳之さん(佐賀工→日体大→NTT九州→NTTドコモ関西)の奥さんに「どうしとっとかね?」と不安な気持ちを伝えていた。
「妹からは『直接聞いてみればいいのに』と言われたのですが、もし病気だったら…と思うと連絡するのが恐かったし、なんとなく聞けなかったんです」
 息子たちがプレーするのを、見守り続けた30年以上。指導者にすり寄ったり、詰め寄ったり、息子たちに対して必要以上にかまったこともない。干渉することなく、応援者に徹することを続けてきたから今回も同じだった。
「甥っ子がインターネットで引退会見当日にニュースを見つけたそうです。それで、妹(甥っ子の母/自分の妹)が拓郎に電話してくれて『心配しとったよ』と伝えたから、本人もやっと連絡してきたみたい。(引退の理由が目の負傷ということで)心配させたくなくて、黙っとったとでしょうね」
 最近見られる親子関係とは違う、この距離感。それがいい。

 箕内家はラグビーの家だった。一歳違いの佳之、拓郎兄弟は、兄が小学校2年の時に福岡県北九州市、鞘ヶ谷ラグビースクールで楕円球を追い始めた。博子さんは、ふたりを毎週土曜日にグラウンドに連れて行き、約2時間、練習をジッと見つめる週末を重ねた。あっという間にラグビーの魅力に取り憑かれた。
「ラグビーは馬鹿ではできん。すぐにそう思ったんです。だから、息子たちに長く続けてほしかった。もし反抗期が訪れて、『ラクビーやめるけん』って言い出したらどうしようと、それだけを恐れていたのですが、幸いそういうことは一度もなく(笑)、ふたりには長い間楽しませてもらいました」
 ラグビー中継があれば、欠かさず家族みんなで見る家だった。五か国対抗、ワールドカップ、国内のビッグゲーム。兄弟はラグビースクールがない日には家の近くで、「俺はヘイスティングス(当時のスコットランド代表FB)、お前はブランコ(同フランス代表FB)ね」と言いながら抜き合いをやったりした。来日したオックスフォード大が北九州で試合をしたときには(対U23日本代表/三萩野陸上競技場)、 市内のホテルでおこなわれたアフターマッチファンクションに兄弟で行き、サインをもらった。
「ふたりとも、スポーツはラグビー以外やったことない。変わっとうでしょう」

 ラグビースクール時代や高校時代のほとんどの試合に夫の完司さんとともに足を運び、応援した。息子のプレーを追っているうちに、ラグビーそのものを見つめる力も高まった。
「佳之が進学した佐賀工は強豪でしたから、試合のとき、保護者が仕事を分担して関係者へのお茶出しなどをやっていたんです。でも私、試合を凝視してそういう仕事を忘れたりしていましたね(笑)」
 佳之さんが「母は監督とかにうちの息子たちを…とか言うことは一切なかったけど、僕たちにあのプレーはとか、今日の試合はどうだったとか、そういうことはいつも言っていた」と当時を振り返り、笑う。
 拓郎が進学した地元・八幡高校の試合と佐賀工の試合の日が重なると、グラウンドをハシゴしたり、それが叶わぬときには「次の試合は応援に行くけん」とどちらかに伝えたり。
「あるとき、拓郎の八幡高校が東福岡との試合で大敗したんです。でも、最後の最後にスクラムでトライをとった。あのときの爽快感はいまでもおぼえています」
 兄が日体大、弟が関東学大に進学し、遠くに離れてからは生観戦の機会は僅かとなったが、心はいつもラグビーとふたりの傍らにあった。

 大学時代ぐらいから遠出ができなくなったのは、完司さんが病気にかかったことも理由のひとつだった。2002年に他界。その当時NECに所属し、日本代表の主将を務めていた拓郎は、父が息をひきとる瞬間に立ち会えなかった。ジャパンのNZ遠征に参加していたからだ。
 亡くなる数日前に危篤になった完司さん。そのことを博子さんは、NZにいる拓郎には伝えてくれるなと関係者に頼んだ。
「佳之とも、『お父さんはそれ(ジャパンを率いている最中に知らされること)を望まんよね』と話したんです」
 拓郎は遠征を終えて帰国した後、父の遺影と向き合った。箕内家にとって、ラグビーはそれほど大きなものだった。

 息子たちと過ごした約30年のラグビーライフ。博子さんは、現役生活を終えたばかりの拓郎に、まだ「お疲れさま」とも「ありがとう」とも伝えていない。近いうちに、あらためて手紙を書こうと思っていると言った。
「ラグビーを始めるとき、実は翌日にはサッカーの練習も見学に行く予定でした。でも、土曜に鞘ヶ谷に見学に行った時点で、ふたりとも『ここに入るけん、サッカーは見に行かんでよか』となった。もし、サッカーが土曜で、ラグビーが日曜だったら人生はまったく違うものになっとったでしょうね。
 高校進学時、拓郎は迷った末に八幡高校に決めました。大学進学も、先に別の大学に決まりかけていたのに、最後の最後に関東学院に決めた。もちろん、すべてはあの子自身が最後に決めたことなんだけど、そういう決断もすべて運命だったんだろうな、と。そう思っていたんです。そうしたら今回、拓郎は目の怪我で引退することについて、『これも自分の運命』と会見で話したそうですね。記事で読みました。私と同じようなことを考えていたんだなあ、と。不思議だったし、嬉しかった。楽しい時間を過ごせた運命に、そして息子たちには感謝です、ね」

 鹿児島本線、折尾駅は大規模な改装工事の途中だった。息子の現役引退を知ってから10日後、駅前のミスタードーナツで博子さんは、いろんな想い出と思いをたくさん話してくれた。
 兄と弟の性格の違い。折尾駅周辺の話。兄の佐賀工時代のことや最近の生活。弟のNEC1年目のVHSビデオを持参し、昔の試合のビデオを見たりする日常についてとか、お孫さんの活躍など。そして、息子たちの応援は終わったから、これからは新たな気持ちでラグビーと接していくのだと言った。
「2019年のワールドカップ、福岡で試合をやってくれたら嬉しいですね。だから、せめてそれまでは元気でいたい。そう思っているんです。息子たちの勝った、負けたがなくなったから、肩の力を抜いて純粋に楽しめると思いますし」
 ラグビーの家のラグビー兄弟の母は、子どものように笑った。
 ありがとう息子たち。ラグビー、愛してる。

【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。89年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。

(写真:引退発表会見をする箕内拓郎/撮影:松村真行)

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