コラム 2014.11.06

マオリ・オールブラックスが単に人種別の代表チームではない理由(その2)  小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

マオリ・オールブラックスが単に人種別の代表チームではない理由(その2)
  小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

 本稿第2回はニュージーランド(NZ)のラグビー黎明期におけるマオリのラグビーから話を再開したい。19世紀後半になると、欧州・英国系白人(パケハ)によってNZには各種フットボールが持ち込まれた。なかでも、この島国で一番の支持を受けることになるラグビールールのフットボールは、ロンドンのパブリックスクールに留学していた白人留学生が自国へ持ち帰り、1870年に南島北部の町ネルソンで最初の試合が行われている。

 パケハがラグビーに興ずる姿を外から眺めていたマオリたちは、ほどなくプレイに参加するようになるのだが、その背景には、以前からマオリの間で行われていた「キ・オ・ラヒ」と呼ばれるボールゲームがラン、コンタクト、パスといったラグビーに通じる特徴を持っていたことが挙げられる。

 1872年にマオリとして最初にラグビーをプレイしたとされるウィリハナが出現し、5年後にはマオリ最初の名プレイヤーとなるジョセフ・ウォーブリックが15歳でファーストクラス試合(州代表以上の公式戦)に出場という記録を打ち立てている。1880年代に入ると、NZではパケハとマオリが一緒にプレイする光景が普通にみられるようになった。

 時代は1892年にNZにラグビー協会が設立されるより前のことだが、1884年に最初の代表チームがオーストラリアのNSW州に遠征した際に、メンバーにはウォーブリックとジャック・タイアロアの2人のマオリが含まれていた。このように、遠征(代表)チームにマオリの選手がつねに選ばれているという流れは、ラグビー協会設立後も同じである。さらに協会の初代役員としても、マオリは重要な役割を務めているのだった。

 そしていよいよ、マオリラグビー最大の遺産である、1888年のNZネイティブズ(ネイティブチーム)の英国遠征へと話を進めたい。今から126年前、彼らはスポーツの歴史上、最長記録となる1年と2か月に及ぶ驚異の遠征を敢行した。

 この遠征の行程を紹介しておくと、まず自国内を転戦する9試合から始まり、緒戦のホークスベイ戦(1888年6月23日)からオタゴ戦(7月31日)を終えると、船でオーストラリアへ渡り、メルボルンとの2試合(8月11、15日)を戦った。このあと1か月半の航海の末に英国に上陸し、10月3日から試合を開始し、翌年3月27日までイングランド(スコットランドで1試合)〜アイルランド〜イングランド〜ウエールズ〜イングランドを汽車による移動で巡回し、74試合(49勝)を戦った。そして、この間にアイルランド、ウエールズ、イングランド各代表とも試合をしているのである。

 帰路にも、5月15〜7月24日までオーストラリアで25試合(一部はオーストラリアンルールズ)、自国に上陸したあと8月7〜24日まで8試合を戦っている。整理すると、全行程は14か月、エジプトでの練習試合を除いて107試合、78勝という成績をおさめ、英国では1週間にほぼ3試合を消化する過密日程をこなしている。

 当時はNZラグビー協会の設立前だったから、興行収入を目的にしたこのような遠征計画も自由だったのだ。立案者はジョセフ・ウォーブリックで選手選考の他、キャプテンを務め、もうひとり、武装警察官から公務員に転じたトーマス・イートンが興行の手配を整えた。21人のマオリ選手にはウォーブリック5兄弟の他、名選手トム・エリソンが含まれていた。エリソンはラグビー協会設立後の1893年にオーストラリアに遠征した最初の代表チーム(後のオールブラックス)の主将を務めることになる。

 1888年のNZネイティブチームは、英国へ遠征した最初のラグビーチームである。当初マオリの選手21人だけで挙行する計画だったが、NZ国内での試合の様子から5人のパケハFWを補強して出発している。

 ところで、スポーツチームの最初の英国遠征はというと、NZネイティブチームの遠征から20年前の1868年に行われた、オーストラリアのアボリジニー・クリケットチームのイングランド遠征だとされている。この遠征は滞在5か月の間に47試合を戦った。チームを率い、興行を計画したのはイングランド人のクリケッターで、緒戦に観客2万人を集めるなど人気を博した。

 実のところ、アボリジニーチームは競技以外でもイングランド人の興味をひいたようである。1859年にチャールズ・ダーウィンの『種の起原』が刊行され、英国植民地・自治領のネイティブへの関心が高まっていたという背景があったようだ。

 マオリの英国遠征にも、時代の風潮が興行の後押しとなるとの胸算用があったことは否定できない。オーストラリアのアボリジニーだが、このあと制定される保護や教育を名目にした行き過ぎた法律によって、自由を奪われ、海外渡航を制限され、クリケット遠征の機会も奪われてしまう。

 一方、NZマオリの方は、その後も何度も海外へ遠征し、マオリ・オールブラックスとしては非公式ではあるが、1888年のネイティブチームの遠征が、マオリラグビーの礎となっているのである。

 1995年、IRBがラグビー競技のプロ容認へ踏み切ったことを転機に、それまでプロと認定されて日陰の存在だった1888年のNZネイティブチームの英国遠征に対する再評価の動きが生まれた。NZネイティブチームの遠征に関しては、現在までに数種類の出版物が刊行され、遠征から120年を経た2008年には、IRBの名誉の殿堂にこの遠征が入ることとなった。

 次回は、南アフリカのアパルトヘイト政策に翻弄されたマオリのラグビー選手たち、そして、1910年の公式な初代マオリ・オールブラックスの誕生から百年を経た2010年、南アおよびNZの両ラグビー協会がマオリに対して行った公式な謝罪について触れてみたい。(つづく)

【筆者プロフィール】
小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)
ラグビージャーナリスト。1949(昭和24)年、東京生まれ。立教大卒。貿易商社勤務を経て画家に。現在、Jスポーツのラグビー放送コメンテーターも務める。幼少時より様々なスポーツの観戦に親しむ。自らは陸上競技に励む一方で、昭和20年代からラグビー観戦に情熱を注ぐ。国際ラグビーに対する並々ならぬ探究心で、造詣と愛情深いコラムを執筆。スティーブ小林の名で、世界に広く知られている。ラグビーマガジン誌では『トライライン』を連載中。著書に『世界ラグビー基礎知識』(ベースボール・マガジン社)がある。

〔写真:1888年から翌年にかけて英国遠征を敢行したNZネイティブズ〕
(The Encyclopedia of New Zealand RUGBYより)

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