故ベルナール・ラパセ氏の功績をたどる。
5月9日、ベルナール・ラパセの葬儀が、フランス南西部、ピレネー山脈の麓のタルブという人口42000人ほどの小さな町の大聖堂で行われた。ラパセの生まれ故郷である。
雨の降るなか、元フランス協会会長(1991-2007)であり、ワールドラグビーの会長(2008-2016)でもあったラパセにオマージュを捧げるために約600人が集った。
参列者の中には、ティエリー・デュソトワール、ファビアン・プルース、アブデラティフ・ベナジら、ラパセがフランス協会会長だった時代の歴代のフランス代表キャプテンや、ジャン=クロード・スクレラ、マーク・リエーヴルマン、前フランス協会会長でもあるベルナール・ラポルトら、ラパセに任命された歴代のフランス代表監督も見られた。
そして幾度となく衝突しながらもフランスラグビーのプロ化を共に実現した、プロリーグ運営団体の初代会長であったセルジュ・ブランコの姿も見えた。
ワールドラグビー会長のビル・ボーモントも駆けつけ、「先見の明を持つ、偉大なリーダーであり、偉大なジェントルマン」と弔辞を捧げた。
ラパセは5月2日に亡くなった。75歳。アルツハイマー病を患っていたと言う。
逝去の報を受け、トップ14のスタジアムでは試合前にラパセの功績を讃えて拍手が贈られた。
1947年生まれ。税関吏だった父の転勤に伴い、カーン、タルブ、ベーグル、アジャンとフランス国内を転々としながらもラグビーを続けた。
ポジションは191センチの長身を生かしたLOだ。20歳の時にフランスジュニア大会で優勝したことがラパセの誇りである。
「勉強では落ちこぼれだった私にラグビーが自信を与えてくれ、道を示してくれた。コミットメント、パワー、そしてリスペクトが混ざり合う中で成長し、社会で生きていくための鍵を見つけた」と、ラパセはかつて振り返っていた。
その後、進学のためにパリに出る。国立税関学校を主席で卒業し、税関で働きながらラグビーを続けていたところ、当時フランス協会の会長であったアルベール・フェラスの目に留まり、1972年から協会で働くようになった。
「最初は特に面白いと思わなかったが、4〜5年経った時に転換期が訪れた。フェラスから『会長の挨拶文』を書くように言われ、それから協会の方針や政策について彼と話すようになった。幹部の世界に足を踏み入れたのだ」(ラパセ)
ラパセの政治家としての人生の始まりである。
1988年にイル・ド・フランス(パリが所在する地域圏)協会の会長に就任し、またフランス協会の副事務局長になる。
ラパセがフランス協会の事務局長となった1991年に、それまで絶対的権力を持ち24年間会長の座に君臨してきたフェラスが退任することになった。後任を選ぶ選挙で、他の有力候補者を退け、立候補もしていなかった37歳のラパセが選ばれた。
フランス協会の会長となったラパセは、フランス南西部に集中していたラグビー人口をフランス全土に拡大することに取り組んだ。
また1998年にスタッド・ド・フランスができてからは、サッカーに続いてラグビーのフランス代表の試合もスタッド・ド・フランスで行うようにした。
その頃、プロ化の波が押し寄せてきていた。当時のIRBの会長は主要国で持ち回り制だった。
1995年、個人的には乗り気ではなかったが、IRB(ワールドラグビーの前身)の会長でもあったラパセがプロ化を発表した。
しかしその直後、「フランスはすぐにはプロ化に移行できない」とフランス協会会長として発言して周囲を驚かせる。「フランスはまだ準備ができていなかった。一握りのクラブが他のクラブを潰してしまうようなことにはなってほしくなかった」と漏らしていた。
誰がプロリーグを運営するのか、また代表選手のリリースについての条件など、リーグやクラブチームと協議を重ねた。
協会から独立した団体(現在のトップ14と2部のProD2の運営団体であるLNR)がプロリーグを運営することになり、協会とリーグの間で代表選手のリリースについての協定を結び、3年後にようやくフランス国内プロリーグが発足した。
会長に就任する前からラパセをよく知る、現地スポーツ紙『レキップ』の記者、リシャール・エスコは、ラパセの4つの勝利をあげている。
まず、パリ郊外のマルクッシにある国立ラグビーセンターの創設である。
それまではあちこちで施設を借りながら代表合宿を行っていたが、代表チームがいつでも使用できる立派な練習環境を整え、現在も女子、男子、15人制、7人制、年齢別の代表チームが合宿に使用している。
ファビアン・プルースは「僕たち選手のための『家』を作ってくれた」と弔辞で述べた。
2つ目は、2007年ワールドカップ(以下、W杯)フランス大会である。ウエールズと共同開催し、スタジアムの集客率は90パーセントを超え、1試合平均4万7150人を集めた。
大成功を収めてフランスのラグビーの競技人口が大幅に増加し、フランスラグビーが新しい時代を迎えたと言われている。
このW杯のイングランド×南アフリカの決勝戦の日に、ラパセは満場一致でIRBの会長に選ばれる。
「アングロ・サクソンが支配する世界でフランスの声を届けてくれる」とフランスラグビー界は喜んだ。
ラパセがIRBで取り組んだのは、「世界に開かれたラグビー」にすることだった。
NZ、オーストラリア、南アフリカの3国で行われていた『トライネーションズ』にアルゼンチンを参入させ、『ザ・ラグビーチャンピオンシップ』と名称変更して生まれ変わらせた。
またアジアで初めてとなる日本におけるW杯開催もその一環である。
そして3つ目の勝利は、ラグビーをオリンピック競技に復活させたことだ。この時に作ったIOCでのネットワークが、その後のパリオリンピック招致に役立つことになる。
2016年、任期満了に伴ってワールドラグビーの会長の座を退き、パリオリンピック招致活動に専念した。
すでに70歳に近い年齢に達していたラパセは、オリンピックを獲得しても、自身が組織委員会の先頭に立って最後まで見届けることは難しいと感じていた。
また「オリンピックは選手が主体とならなければならない」という強い信念を持っていた。
カヌー競技のメダリストであるトニー・エスタンゲにリーダーの資質を見出し、「2017年のリマ(ペルー)でのICO総会までは私も一緒に行こう。その後のことはトニーに託す」と言っていた。
まず、パリ市長のアンヌ・イダルゴを説得し、本格的に招致委員会が発足した。
ラパセとエスタンゲの共同会長体制で招致活動が行われたが、常にエスタンゲを表に立て、自身は裏方に徹する。
「ベルナール(ラパセ)とのコラボはスムーズでとてもシンプルだった。ロビー活動について、世界の状況について、フランスの政治システムについて急ピッチで教えられた。それが教えてあげているという態度ではなく、僕を巻き込み、育ててくれ、気がつけばバトンを渡されていたという感じで、とても自然だった」とエスタンゲは振り返る。
そしてオリンピックを獲得した。ラパセは組織委員会に名誉会長として名を残しただけで、会長はエスタンゲに一任された。
それを4つ目のラパセの勝利だとエスコは言う。
「自らが身を引くことによってオリンピックの招致を完成させた」と。
いくつもの功績に感謝したい。