【ラグリパWest】感謝を胸に。 田村魁世 [同志社大 共同主将/スクラムハーフ]
田村魁世は感謝ができる学生である。
その名前「かいせい」には、世の先駆けになってほしい、という父・和之と母・久美の願いが込められている。
同志社では最終の4年生。スクラムハーフを任され、共同主将に就いた。ロックの南光希と2人で、両親の希望通りチームの先頭に立つ。その底には常に謝意がある。
18歳までは神奈川で過ごした。大学から京都に来る。文武両道を考えた。桐蔭学園からはフランカーの杉野優太が一緒だった。
「最初は関西弁が怖かった。怒っているのかな、と思いました。杉野がいてくれたからよかった。ひとりだったら、慣れない環境でどうなっていたか分かりません」
1年時は肩を痛め、手術をした。戦力にはならない。ストレスにつぶされず、京田辺で研鑽を続けられたのは同期の存在が大きい。
「2年生になってTIDキャンプに呼んでもらいました。山神さんのおかげです。自分なりにアピールはできました」
世代の日本代表候補に入る。山神孝志はその正確なパスワークや俊敏さを買っていた。山神は田村の入学前の同志社監督。この時期はフル代表の強化副委員長をつとめ、ユースの統括だった。
山神の高評価もあり、高校、U20 、ジュニア・ジャパンと順調に世代の日本代表の階段を上がった。ジュニア・ジャパンはフル代表の下に位置している。
2年秋、同志社ではスタンドオフを任された。170センチ、79キロとそう大きくはなかったが、古城隼人、南野仁ら司令塔候補がケガをした。高3時にこのポジションは経験済みだった。早稲田に進んだひとつ下の小西泰聖とハーフ団を組む。
関西リーグ再開後はスクラムハーフに戻った。この2019年はワールドカップで約1か月の中断があった。
「自分ではスクラムハーフの方がしっくりきます。経験が長いですから。でも、楽しいのはスタンドオフです。ゲーム・メイクができるし、人も使えます」
3年時はスクラムハーフを近鉄に進んだ人羅奎太郎に任せ、再びスタンドオフ。関西2位になったが、部内でコロナのクラスターが発生。57回目の大学選手権を辞退する。
「ラグビーができるありがたみを感じました。ラグビーができることは普通じゃない。出られなかった先輩たちの分を背負って、という格好いい感じではないですけど、そういう思いで最後までやるつもりです」