どん底から這い上がるも難病で引退。加藤広人(サントリー)は、それでも前を向く。
引退の理由がケガだったら、どんな感情になったか。
仕方ない。それもラグビーの一部。そう思えただろうか。
実力の世界だ。戦力外通告なら諦めもついたかもしれない。
潰瘍性大腸炎。まさか、それでラグビーができなくなるなんて思っていなかった。
サントリーサンゴリアスの加藤広人(LO/FL)が現役から退いた。早稲田大学から加入して3年の在籍だった。
ドクターストップを受けた。
最初は受け入れられなかった。
症状が出たのは昨年。コロナ禍で打ち切りとなったリーグ戦後のことだった。
お腹を下すことが度々あった。下痢が続く。腹痛。食欲不振。発熱。いまに治るだろうと思っていたのに、一向に快方に向かわない。
チームドクターの指示を受けて詳しく調べると、前出の病名を告げられた。
国が指定する難病だった。
免疫が暴走して自身を攻撃する。結果、腸内が荒れて炎症を起こす。血便、貧血、倦怠感なども伴う。安倍晋三前首相と同じ病気だった。
トヨタ自動車の川西智治(HO)も同じ病と長く戦いながらグラウンドに立ったと聞き(2020-2021シーズンを最後に引退)、機会を見て話をさせてもらったこともある。
「川西さんは闘病しながらプレーを続けられていたので、勇気をいただきました」
でも、自身の復帰は叶わなかった。
一日に30回もトイレに向かうこともあった。寝ていても1時間おきに目が覚める。
きちんと治しましょうと入院。絶食が2週間続いた。点滴で栄養を体に入れ、続いて栄養剤入りの飲み物だけで1週間。
体重は大きく減った。
筋力も落ちて練習にも加われないから、グラウンドに行っても居場所がない気がした。スタッフの手伝いを志願した。
アナリストの仕事をサポートした。試合日は早くから現場に乗り込み、戦いが終わればコーチ席の後片付けもやった。
そんな活動を続けながらトレーニングの時間を見つけ、少しずつ筋肉を取り戻す。体重も90キロ台に戻り、「もう少しで復帰かな」という時期もあった。
しかし再発した。
再検査。そして、ドクターとの面談があった。
治療には強い薬を服用する必要があった。だから治療、一時回復、再発…の繰り返しは体への負担が大きい。さらに重篤な状況を招く可能性があると言われた。
ラグビー人生でなく、もっと長く続く人生を考えての決断が必要だ。ドクターストップがかかった。
頭では仕方ないと理解できた。
「でも、受け入れられませんでした」
生きる希望を失った。
宣告を受けた日、「話したいことがあるので、時間をとってもらえませんか」と、先輩の中村駿太(HO)に連絡をした。サンゴリアスへの加入以来、グラウンドだけでなく酒席でも関係を深め、お世話になっていた。
現実を伝えるうちに涙がとめどなくあふれた。
朴訥な秋田男。小学2年生のとき、金足西少年ラグビースクールで始めたスポーツを、秋田北中、秋田工と続けた。早大では主将だった。
高校日本代表、U20日本代表、ジュニア・ジャパンと、各年代で代表に選ばれるも、サントリーでの試合出場は1年目の1試合だけだった。
2018年10月20日におこなわれた日野戦の後半に途中出場した(脳震盪の疑いがある選手に代わって一時出場した後、後半36分から入れ替えでピッチへ)。
2年目はコロナ禍でシーズンが途中打ち切りとなり、3年目は病に苦しんだ。
3季の在籍中、実働は1年目のみだった。
そのルーキーイヤーも辛かった。
同期の堀越康介(PR/HO)、梶村祐介(CTB)、尾﨑晟也(WTB/FB)らがどんどん試合に出場する中、自分だけカヤの外だった。
練習では、当時の沢木敬介監督から、いつも厳しい言葉が飛んできた。
いまでこそ「自分のやるべきことをクリアにしないままやって、ミスしていた」と振り返ることができるが、当時は追い込まれた。
同じ秋田出身の沢木監督の厳しさに、「俺、なんでこんなに怒られているのだろう、と。相当、悩みました」。
同期は褒められ、試合に出ていた。どうして自分ばかり、と。
いますぐにグラウンドから出ろ、そうしないなら練習を再開しないからな。そう言われても食い下がって、走り続けた日もあった。