国内 2025.10.11

恩返しのため、二人で活躍する。茨木颯&海斗[筑波大/FL・PR]

[ 明石尚之 ]
【キーワード】, ,
恩返しのため、二人で活躍する。茨木颯&海斗[筑波大/FL・PR]
左から兄・颯(187センチ、97キロ)、弟・海斗(183センチ、115キロ)。(撮影:BBM)

 開幕から明大、慶大を破り、勢いに乗る筑波大。
 その連勝の大きな要因となった、セットプレーを支えているのが茨木兄弟だ。

 弟の海斗は右PRとしてスクラムで力を発揮し、兄の颯(そう)はFLとしてラインアウトをマネジメントしている。

 それぞれ2年生と4年生。だから、この秋冬が2人で挑む最後の大学ラグビーとなる。

 10月11日に控える早大戦を前に、兄弟のストーリーを語ってもらった。

――まず過去2試合を振り返りから。2戦目の慶大戦は、スクラムで勝利を手繰り寄せました。

兄(颯) スクラムは自分が言うのも(弟を褒めるようで)あれですけど、対抗戦までにフロントローが自信を持てていたので、特に心配していませんでした。

弟(海斗) 明治戦では1本しかペナルティを取れなかったけど、慶應戦では相手の成功率を60%くらいにできましたし、たくさんペナルティも取れました。J SPORTSのハイライトで僕らのスクラムを振り返ってもらえたのが、めちゃくちゃ嬉しかったです。

――海斗さんは1年時から背番号3を着続けていますが、スクラムにはもともと自信があった。

 高校生のときにお母さんと筑波の試合を見ていて、あとはスクラムだな、と話していて。自分が筑波に入ってスクラムを強くしたいと思いました。高校ではコロナ禍だったこともあり、スクラムの基礎練習がめちゃくちゃ多かったんです。上杉さん(慎二FWコーチ)にフロントローだけ別メニューで「タイヤ持って集合」と言われ、僕らはヒガシっぽくない1年を過ごしました(東福岡は展開力が売りのチームのため)。

――開幕の明大戦では、ラインアウトスティールで相手のリズムを崩せました。

 上手くいき過ぎたと思います。逆に慶應戦ではあまり競ることができなかったので、少しバタバタしてしまった。途中で「3本に1本取れたらいい」くらいにマインドを変えて落ち着けました。

――なぜ明大戦では「上手くいき過ぎた」のでしょう。

 ラインアウトはアタックが自分、ディフェンスは白丸(智乃祐/LO)がリーダーをやっていて、スティールのところは白丸がかなり細かく分析してくれました。

 仮想明治をやってくれたブラックス(Bチーム)の方が、動きが速かったのも大きかったです。試合中に明治がどこで飛ぶのかが(後方の)僕でも見えました。

――ラインアウトは昨年、苦労した点でした。

 去年はサインが少なかったんです。それでも夏まで完璧だったので、そのまま秋を迎えてしまった。そこで失敗を重ねたときに、上手く改善できませんでした。

――颯さん自身はラインアウトマニア。

 高校のときから結構好きでした。練習後もよくやっていたと記憶しています。ヒガシのときからスピードを意識していたので、それはいまでも生きていると思います。

 ちゃんとやらなかったら怒られます(笑)。

――兄弟の関係性も聞かせてください。なんと呼び合っている。

 そのままですね。カイト、ソウで。ずっと変わってないです。

 あ、小2くらいまで「にいに」でしたね。妹が生まれてから言わなくなりました。

――幼少期の兄弟仲は。

 めちゃくちゃケンカしていました。

 どっちも空手をやっていたので、殴り合いでした。

――原因は。

 あまり覚えていないのですが、自分がキレやすかったのかなと思います。

 誕生日プレゼントで同じ3DSを頼んだときはブチギレられました。なんで被せて来たんだと。

 まったく覚えてないです(笑)。

――明るい海斗さん、おとなしい颯さんと性格は異なりますね。

 人見知りするか、しないかだと思います。

――体格も違う。

 小さい頃から「丸い」と「細い」でした。僕は周りから「デカくなり過ぎじゃない?」と言われてきました。

 僕はなかなか大きくなれなくて苦労しました。中学では最初WTBやFBをしていて。ただキックが苦手だったので、練習ではたまたまFWの一人がケガをしたときに、逃げるように「代わりにFWにいきます」と言いました。それからずっとFWです。

――ラグビーは颯さんが小1、海斗さんが年中と同じタイミングで始めました。

 痛いのが嫌で空手を辞めたタイミングでした。そのときにカイトが、草ヶ江ヤングラガーズでラグビーをしていた叔父の中学時代の写真を見つけて。ラグビーをやってみたいと。自分はラグビーも痛いので行きたくなかったのですが、練習後にマック(マクドナルド)を買ってくれると言われてつられてしまいました。

――結局、一度も辞めずにここまできました。

 中学、高校に上がるタイミングで何度も辞めようと思っていたんですけど、友だちと遊べなくなるのが嫌でした。

――高校は県内の強豪、東福岡にチャレンジしました。

 母子家庭なので私立に行くのは難しいと分かっていました。でも、親から「負け癖がついていいのか」と言われて。東福岡に行くことを決めました。

――そこで前向きになれた。

 はじめは下のチームにいたけど、2年生のときの部内戦でたまたまパフォーマンスが良くて。それからAチームに上がりました。先輩も怖かったし、プレッシャーもあったけど、Aチームで試合に出られる楽しさも感じて、だんだんラグビーに対して前向きになれました。

――海斗さんは兄を追いかけるようにして東福岡に。

 僕もはじめはヒガシに行きたいと思っていませんでした。ソウにも「来んな」とずっと言われていました。

 ヒガシが厳しい場所だと分かっていたので。入ってくる人はみんなスペシャルな選手ばかりです。中学時代に県選抜に選ばれていない選手の中で僕は運良く上のチームに上がれましたが、簡単に通用する世界ではないので勧めませんでした。

 ただ、どこの高校に行くか悩んでいたときにソウが試合に出始めて。それからヒガシでやりたいと思いました。中3の時にコロナ禍になって公式戦は一度もできなかったので、ヒガシが中3を集めて一緒に練習をしたり、試合を組んでくれていたんです。

――東福岡では一緒にプレーできなかった。

 コロナ禍でAチームとBチームは分かれて練習したので、試合どころか練習も一緒にできませんでした。でも、挨拶などいろいろ怒られて。自分づてに同期のみんなに伝えないといけませんでした。

 やっぱこの関係なので、言いやすくて…(笑)。

 唯一、一緒にできたのはソウが卒部した後です。3年生が練習の手伝いに来てくれて、一緒に部内マッチをしました。そこで初めて3年生ってこんなにラグビー上手いのかと思いました。

――海斗さんも2年時から出場機会を得ました。

 同期は松﨑天晴(現・青山学大)、三木翼(現・関西大)、僕と、うるさい人が多くて、きつい練習や地味な練習をみんなで楽しんでやっていました。ただ、めちゃくちゃ負けず嫌いでもあるので、同期が先に試合に出ているのが悔しくて、ポジションを1番からその同期がいる3番に変えました。

――コンバートで出場機会を増やせた。

 何度も危ない時期はありました。ひとつのプレーでメンバーに入るか入らないかが決まると思うと、前のめりになり過ぎてしまって。国体で3回くらいノックオンした後はなかなか試合に出られなかったですし、3年でもペナルティーをしがちでした。

――当時と比べて成長できた。

 そう思います。ヒガシのときはポッドで、田中京也(現・立命大)のキャリーをひたすらオーバーする役割でした。でもいまは自由にできるラグビーなので、ラグビーをよく考えるようになりました。

――筑波大に進学した理由は。

 高校選びと似ているのですが、簡単に県外には行けないと思っていました。でも、筑波に声をかけられて、行くしかないと。

 僕はいろんな人に筑波に行きたいと言い続けていました。そうしたら行けるようになるかもしれないと思って。大学ラグビーに憧れがなかったのですが、ソウが筑波に行ってから試合を見るようになり、2年前の東海戦が胸に刺さりました。ブレイクダウンにプレッシャーをかけまくって、走りまくっていました。

――今年から二人、同じ部屋に住んでいるようですね。

 僕は一人で過ごすのが好きなんですけど、家賃が浮くからいいかなと(笑)。米を炊くのを忘れたと思ったら、ソウが炊いていたりするので助かっています。うるさいですけどね。

 それは申し訳ないと思ってます(笑)。でも、喋るのが好きなので。(お互い)一人暮らしのときも結構、家に行ってお母さんからの仕送りを届けたり、鍋をしたりしていました。

――二人で臨めるラストシーズンです。どんなシーズンにしたいですか。

 母子家庭だったので、いろんな人に支えてもらってラグビーができています。お世話になった人たちに見てもらえるように、最後まで頑張りたいです。

 一緒にできるのが最初は楽しくて、いまは普通になってしまっているのですが(笑)、いろんな人が応援してくれていると自分も感じています。二人で出場すればするほど喜んでもらえると思うので、勝って恩返しがしたいです。

PICK UP