こども食堂×ラグビーで「夢を叶えるエネルギーを」(1)BULLS沖縄ラグビースクール/地域振興×ラグビー普及の取り組み

沖縄ラグビー界の振興とラグビー普及を目的として3年前に設立された「BULLS沖縄ラグビースクール」が、こども食堂の運営などを掛け合わせ、活動を活発化させている。
「沖縄ラグビーの根っこを強くしたい」
BULLS沖縄を立ち上げた二人の開拓者の、共通した思いだ。
ラグビースクールの立ち上げは2022年10月。三菱重工相模原ダイナボアーズでプレー経験のある比屋根裕樹(ひやね・ゆうき)さん、元日本代表の加藤あかりさん、設立者の二人は、ともに沖縄県出身だ。
スクールでは週3回、県中部の沖縄市とうるま市でセッションを展開している。スクールをうるま市で立ち上げた時にはわずか4人だった参加者の子どもたちも、今は20人規模になった。各小学校でおこなう体験授業など、スクール以外の事業も手がけてきた二人は、この4月にこども食堂を開設した。月に1回、うるま市の塩屋公民館が、誰でも来られる無料食堂になる(対象者は未成年の子と親)。
こども食堂を「アスリート食堂」と銘打って、スポーツと食事をセットにしたイベントとして開催している。名前の通り、毎月さまざまな競技のアスリートらがゲストとして参加し、子どもたちと体を動かし、ごはんを食べる。お腹も心も満たすイベントとして、4月19日に第1回がおこなわれた。足を運んでくれたファミリーからは感謝と、応援の声が届いている。
「夢をかなえて、目標に向かって突き進んでいるアスリートと時間をともにします。子どもたちには、自分の夢ややりたいことを、抑え込んでほしくない」(比屋根さん)
スクールの立ち上げから参加者募集、普及活動をするうちに地域の課題を実感するようになった。
アスリート食堂のゲストには、スポーツ界だけではなく、経営者など他分野の方々にも参加をお願いするという。
BULLS沖縄の共同設立者、うるま市で高校時代を過ごし、今は暮らしを営む加藤さんにとって、子どもたちが抱える課題は「自分ごと」だ。
「沖縄には貧困という地域の社会課題があります。自分自身も、高校くらいまでは『何をして生きていったらいいんだろう』という漠然とした不安があった。私の場合は、ラグビーと出会って、のちに『日本代表になる』と目標を持てた時に変わった。将来を思い描けるキラキラしたものに、人生が変わったんです」
ラグビーチームの立ち上げが、ふるさとのありようを知り一緒に変えていく行動のきっかけになった。ラグビー普及と地域振興は、比屋根さん、加藤さんの中で、まさに両輪として機能していく。
ラグビースクールのコーチが、どうして食堂を?
普及、育成からラグビーの振興を考えた時、スポーツの課題は地域そのものの課題と切り離せないのを実感したからだ。ラグビーをする子に集まってもらうには、より多くの子がスポーツを始め、続ける環境をつくることが前提になる。
「スポーツの前に、子どもたちにはそれぞれの家庭と生活があります」(加藤さん)
加藤さんは、自身が日本代表まで駆け上がったアスリートだ。ラグビーとの出合いは中学3年の終わりごろ。それまでもスポーツは好きだったが、家庭の事情もあり本格的に打ち込むことはなかった。中学ではバスケットボール部に在籍していたが、「どちらかというと遊びにエネルギーがいっていた」(本人)。

中3の終わりに、友達に誘われタグラグビーの県大会に出場した。うるま市の石川高校のタグラグビー部(女子)との対戦があり、敗れた。
「相手は高校生だったけれど、すごく悔しかった。公立高校だし、自分もそこへ行ってタグをやろう、と」
負けず嫌い。芯の強さと身体能力の高さが生かされ、ラグビー日本代表につながる道を歩んだ。現役中に結婚、引退後に出産、今はフルタイムで働きながら4歳の子を育てる母でもある。
BULLS沖縄のもう一人の設立者、神奈川県から帰郷した比屋根さんは、社会人トップカテゴリーで4年半のプレー経験がある。
地元は沖縄市。ラグビーを始めたきっかけは、小6最後のサッカー大会が終わった後のこと。クラブチームの仲間と公園で遊んでいた時に、ある子がボールを手で持って走り始めたからだという。
「後から思えば、ラグビーが生まれたエリス少年の話のよう。それ、ラグビーじゃん! ってなったけど、やってみたらおもしろかった」
沖縄市立 美東(びとう)中学校では1年時からラグビー部に所属したが、同期は比屋根さん一人。先輩が卒部した中2の終わりにはたった一人の部員となったが、他の運動部の中体連が終わると、かつて公園でボールを手にした仲間が加わった。中3時の2012年、美東中は九州中学校大会準優勝にまで駆け上がる。メンバーの多くはコザ高校に進み、花園出場を果たすチームになった。

在学中には大学選手権準優勝を遂げた強豪・東海大を経て、リーグワンへ。引退時も「プロ選手として競技を続けたい気持ちは強かった」。三菱重工相模原との契約を失った時には他チームにもプレーの場を求めたが、所属先は見つからず。帰郷した。
「大学、社会人では、小さいころからスクールでプレーしてきた選手が多かった。沖縄にはまだトップとの環境面のギャップがあると感じて、地元でスクールを作りたいと思った」
プレーへの強い思いは、故郷のラグビーの裾野を広げる熱意へとコンバートする。
「沖縄に帰るタイミングで、加藤さんも沖縄に戻ると聞いた。一緒にスクールを作ろう! という話になった」(比屋根さん)
「私はその時、もう一度、ラグビーのように熱を注ぎ込めるものが欲しいなと感じていた。一歳の子を育てながら働く中で、私一人では踏み出せなかったけれど、裕樹(比屋根さん)の存在が背中を押してくれました」(加藤さん)
互いに家族を支える身で、沖縄へ。ラグビーの普及と発展に新しい目標を見つけた同志のような先輩、後輩は、加藤さんの出身校があるうるま市で2022年、BULLS沖縄ラグビースクールを立ち上げる。初回の練習には4人の子が集まってくれた。
小さなプレーヤーたちはいま、20人を越えている。クラブの周りに集う人々は子どもだけでなく、ラグビー関係者だけでもない。BULLSの普及活動は、地域の課題解決のアクションにつながって多くの大人を巻き込んでいった。(続く)