コラム 2025.04.04

【コラム】ラグビー界のルディ。

[ 明石尚之 ]
【コラム】ラグビー界のルディ。
ここまで3試合に途中出場の吉岡義喜。第10節・釜石SW戦では50メートル独走トライを記録した。目標は東京SGの流大©JRLO

 3月某日。静岡ブルーレヴズの選手編成、採用を担う西内勇人さんが、筆者に聞いた。

「ルディって映画、知ってますか?」

『ルディ/涙のウイニング・ラン』。30年以上前に公開された不朽の名作だ。

 アメリカンフットボールの名門大学で、選手としてはあまりに小柄なルディが試合出場を目指す、実話をもとにしたストーリーである。
 ルディはずっとメンバー外だったが、日々の努力とチームへの情熱を見た仲間たちに認められ、学生最後の試合に出場できた。

 西内さんは続ける。
「吉岡はルディなんです。正直、プレイヤーとしてはまだまだです。でも、応援したくなるんですよね」

 その話題は吉岡義喜(よしおか・よしき)。24歳のスクラムハーフだ。

 2月14日、ブルーレヴズからNECグリーンロケッツ東葛にシーズン途中で移籍した。
 今季から適用された、期限付き移籍制度の「第1号」となった。

 その8日後には、清水建設江東ブルーシャークス戦で途中出場。リーグワンでのファーストキャップを掴んだ。

「これまでメンバー発表で自分の名前が呼ばれる経験をほとんどしてこなかったので、めちゃくちゃ緊張しましたし、ついに来たかと覚悟も決まりました」

 そう。吉岡は東洋大で公式戦(春季大会を含む)出場は2試合のみ。そこからブルーレヴズとの契約を勝ち取り、グリーンロケッツでリーグワンデビューまで飾る。
 まさに血の滲むような努力で、ここまで這い上がってきた。

 楕円球との出会いは中学3年時。2015年のワールドカップで日本代表が活躍する様をニュースで見た。野球少年の心が動いた。
 ラグビーどころの大阪府出身も、それまでは「僕の住んでいた地域にラグビーのラの字もなかった」という。

 学校説明会で興国高校にラグビー部があると知り、その門を叩いた。
 強豪校だと理解していたが、自分以外の全員がラグビー経験者だったことには面食らった。

「みんな、ナイキのマークが入ったカッコいいジャージーを着ていて。僕だけ体操服でした」

 コンタクト局面で何度も吹き飛ばされ、ルールが分からずよく叱られもした。「悔しさの連続でした」。

 鍛錬を人一倍重ねる習慣は、この頃に身についたのかもしれない。

「当時はWTBだったので、朝7時からの陸上部の練習に参加させてもらいました」

 そこでのハードル走で、足の裏で地面を蹴る感覚を掴む。自然とステップが切れるようになった。

 2年時から試合にも出られ、当時関東リーグ戦2部にいた東洋大への入部も叶った。
 1年の夏には167センチのサイズを考慮してSHに転向。田井中啓彰コーチ(当時/現・東京ガスコーチ)や、信頼の厚い同期の石山愁太に勧められた。

「右へのパスは少し放れましたが、左にはまったく放れませんでした」

 またしても特訓の日々が始まった。「体感では1日1000本ぐらい投げました」。擦れて指紋がなくなったり、手のあかぎれがひどく、洗い物ができなくなるほどパス練を続けた。

 しかし、2年時はコロナウイルスに見舞われ、3年時からはライバルが台頭する。
 現・九州電力キューデンヴォルデクスの神田悠作が、SOからポジションを移していた。神田はすぐにレギュラーとなり、チームを1部昇格、翌年には初の全国大学選手権出場に導く。

「3年生のときは悔しくて一緒に練習できなかったのですが、4年生で切り替えられてからは悠作の持っているものを全部盗もうと思いました」

 その前には「もっと上手くなりたい」と、1か月間のオーストラリア留学も敢行。クイーンズランド大のクラブチームでプレーした。

「でも、帰ってきたらハーフが11人もいて。WTBに回ってほしいと言われました」

 結局、4年時は一度も試合に出られず不完全燃焼。どんどんと階段を駆け上がるチームに身を置き、リーグワンでプレーしたくなった。

 選手権を観戦した父は「夢の舞台を見せてくれてありがとう」とメッセージをくれたが、「自分は試合に出ていない。もっといいところを見せたい」とかえって奮起した。

「東洋や仲間が好きだったので、4年生になってからはスピーチの機会があるたびに泣いていたのですが、卒部のスピーチでは涙が出ませんでした。僕はこっからやと。覚悟が固まりました」

 卒業後、もう一度オーストラリアに渡った。本人が「奇跡の連続」と話すのは、その約半年後にブルーレヴズと契約できたからだ。

 同じくブラザーズでプレーしていたハンター・リムがブルーレヴズのトライアウトに呼ばれると、ほどなくして吉岡にも声がかかったのだ。SHにけが人が続出していた。

 合流してまもなく、豊田自動織機シャトルズ愛知との練習試合で猛アピール。オーストラリアで磨いた逆足でのロングキックを披露できた。
 その後に帯同したキャンプでまた負傷者が出たこともあり、そのまま磐田ライフを勝ち取った。

 西内さんは当時のことを覚えている。
「はじめは取るつもりがなかったのですが…。練習へのアティチュード(姿勢)が凄かったんです」

 昨オフに契約を更新できたのも、一番にそこを評価されたからだった。「辞めさせられないよね」が、首脳陣の総意。チームに良い影響を与えているのは明らかだった。

 筆者が練習を見学した1月末も、吉岡は最後までグラウンドにいた。広報の笠原翼さんは、それは「いつもなんですよ」と教えてくれた。

「僕はラグビーを始めたのも遅いですし、他の人よりも経験がありません。だから人一倍やらないと勝てないと分かっています。レヴズではメンバーに絡めていない事実を受け止めて、練習や練習試合で上の選手たちに良いプレッシャーをかけようと思っていました」

 矢富勇毅アシスタントコーチがSHを対象に開く「矢富塾」で、パスやキックを磨いていた。

「パスは一番伸びたと思います。パスってこんなに奥深いんやと思うくらい、矢富さんは一つひとつの動きにこだわっていました」

 移籍の打診は突然だった。

 西内さんから前例のない挑戦を、「明日までに決めてほしい」と言われた。
 グリーンロケッツはニック・フィップス主将、丸尾祐資が相次いで負傷。SHが藤井達哉しかおらず、急を要していた。

「レヴズが好きだったので悩みました。でも西内さんからは、プロ選手なのだからレヴズだけで考えず、もっと視野を広く持ったほうがいいとアドバイスをもらって。確かに、こんなチャンスをいただけることはなかなかないなと」

 矢富コーチも快く送り出してくれた。
「練習に取り組む姿勢をちゃんと見てるし、プレイヤーとしてもすごく良くなった。それは自信を持って言える。最終的にはヨシが決めることやけど、どっちを決断しても俺は応援する」

 リーグワンデビューを飾った日には、レヴズの選手、スタッフをはじめ、たくさんの人から連絡があった。
 東洋大の先輩は「もう一度ラグビーを頑張ろうと思えた」と言ってくれ、面識のない大学生からも「勇気をもらった」とSNSでコメントをくれた。

「試合に出られてなくても諦めなければできるということを証明したいと思っていました。人生においても諦めたらアカンなって。自分にとっても学びにもなりました」

 ルディは作中で、「夢は人生の宝物」と言った。
 それが、己を突き動かす一番の力になる。

【筆者プロフィール】明石尚之( あかし ひさゆき )
1997年生まれ、神奈川県出身。筑波大学新聞で筑波大学ラグビー部の取材を担当。2020年4月にベースボール・マガジン社に入社し、ラグビーマガジン編集部に配属。リーグワン、関西大学リーグ、高校、世代別代表(高校、U20)、女子日本代表を中心に精力的に取材している。

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