コラム 2025.03.03

【ラグリパWest】ラグビーは続く。浦真人[九州電力キューデンヴォルテクス/OB]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】ラグビーは続く。浦真人[九州電力キューデンヴォルテクス/OB]
九州電力キューデンヴォルテクスの一員としてチームの歴史を作ってきた浦真人さん(左)。現在は母体の九州電力から出向。九電配送サービスで働きながら、次女を含めた中学生にラグビーを教えている。隣に映るのは大分舞鶴の後輩でもあるFLの高井迪郎の等身大パネル

 浦真人(うら・まさと)は律儀で男前だ。41歳になった今でも変わらない。

 コーチだった山神孝志を見かける。
「あいさつせにゃいけん、と思いました」
 観客席から関係者入り口に下りた。190センチの体を折り曲げる。その顔はEXILEのHIROに丸みを帯びさせた感じだ。

 縁ができたのは同志社だ。浦はその長身が示すように、縦に強い、LOらしいLOだった。今は九州電力にいる。山神はクボタから日本ラグビー協会に移り、最高事業遂行責任者(COO)についた。

 2人は北九州であった女子7人制大会、通称「ナナイロカップ」を訪れていた。
「娘がエキシビションに出ていました」
 浦の次女の莉生(りお)は新中3。福岡レディースで父のあとを追っている。
「うれしいですね」
 その目じりは急降下する。

 福岡レディースの練習には浦も顔を出す。指導する平野勉から頼まれた。
「ちょっと見てくれないか」
 平野は現役時代、FLとしてノンキャップの日本代表だった。日新製鋼(廃部)から九州電力に移った。

 浦にはコーチングの感想がある。
「楽しいけど難しい。子供たちにわかってもらえるように言葉を選ばないといけません」
 これまでは選手だった。今は教える側に回る。学びは多い。

 現役引退は3年前の5月だった。
「自分ではまだできると思っていました。でもゲームに出られなくなりました」
 当時38歳。チーム構想から外れる。九州電力キューデンヴォルテクス、略称「九州KV」では一筋16シーズンを過ごした。

 記憶に鮮やかなのはリーグワンの前身、トップリーグの2011-2012シーズンである。社会人になって6年目。当時の九州電力は二部のトップキュウシュウを1位で勝ち上がり、トップリーグの入替戦に臨んだ。

 自動昇格の2位までに入るには、最終戦のキヤノン戦(現・横浜E)で39点差以上をつけて勝たなければならなかった。その試合で九州電力は68-17と大勝する。

「うれしかったですね。絶望的な状況で上がれました。その時、勝利は一つひとつのプレーの積み重ね、目の前のことに集中して全力を尽くすということを実感しました」

 その九州電力には同志社から入った。ここで山神と出会う。2年からレギュラーになった。U19と学生の日本代表にも選ばれた。関西リーグは4連覇。大学選手権は2年時から3大会連続4強入りをした。

 忘れられないのは2年時の大学選手権だ。大会は40回(2003年度)。早稲田に33-38と5点差で敗れた。
「早稲田は組織だって攻めてきました」
 ピック・アンド・ゴーの連続で、同期のNO8佐々木隆道(現トヨタVアシスタントコーチ)に決定的なトライを奪われた。

 19回大会からの3連覇後、2回目の決勝進出の好機を逃す。浦は振り返る。
「メンバーは集まっていました」
 その名前はすらすら出てくる。HO荻原要、LO望月雄太、NO8端迫雅俊、SO今森甚、両CTBは仙波智裕と平浩二。両WTBは正面健司と鄭晃彰、FB吉田大樹である。

 日本代表に入ったのは5人。キャップは望月が7、仙波は9、平は32、正面は2、吉田は7である。望月、仙波、吉田は東芝(現BL東京)、平はサントリー(現SG東京)、正面は神戸製鋼(現・神戸S)などに在籍した。

 同志社へ行った理由はある。
「早めに話をもらいました」
 大分舞鶴の1年の時だった。高校でも2年からレギュラーになる。全国大会は3年連続で出場できた。

 2年の時に創部50年を迎える。80回大会(2000年度)は3回戦敗退。仙台育英に17-19。仙台育英は4強戦で佐賀工に31-31と引き分ける。その佐賀工を決勝では伏見工(現・京都工学院)が21-3で降した。

 次の81回大会は8強敗退。大阪工大高(現・常翔学園)に33-38。当時としては異例のロスタイム5分の末だった。
「花園ラグビー場ということでアウエー感がありました。勝つ感覚はありましたが…」
 優勝はその大阪工大高を27-24と3点差で破った啓光学園(現・常翔啓光)。浦は大分舞鶴が強い時代を知るひとりである。

 大分舞鶴を選んだのは、50周年に向け、ラグビーを強化していたこともあった。その競技を始めたのは小3だった。
「友だちに誘われました」
 身長はすでに同級生より頭ひとつ抜けた150センチほどあった。小、中は福岡で過ごす。引津リトルラガーズ(現・伊都ヤングラガーズ)から中学は前原東(まえばるひがし)の部活動に参加した。

 福岡から大分に行き、京都からUターンで九州電力に就職を決めたのには理由がある。
「帰りたい気持ちはめっちゃありました」
 浦は多くの九州人がそうであるように、生まれ育った場所を愛している。

 現在は九電送配サービスに出向している。
「電力の自由化がありましたが、小売りの人たちはウチの電線を使っています。その管理ですね。請求書を送ったりしています」
 週末は休日になる。次女と一緒にラグビーができる。幸せなことである。

「本当のことを言えば、ラグビーを教えるなんておこがましい。でも誘ってもらったこともあるし、得てきたものを少しでも将来ある子供たちに還元できれば、と思っています」

 律儀だけではない。ここでは謙虚さも顔をのぞかす。ラグビーはもちろん、人生においてもその姿勢こそが大切。引っ張ってもらえる。だからこそ、浦は選手として名を成した。コーチングもまた同じである。

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