【コラム】自分なりの恩返し。
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2月上旬、ラグビーリパブリックの問い合わせ欄に1件の取材依頼が届いた。
「多くの人に支えていただきました。でも、まだ恩返しができていません」
記事を通して感謝を伝えたいという内容だった。
送り主は東海大相模の3年生、笹川祐(ささがわ・たすく)さん。ボールキャリーが大好きなフランカーだった。
3年前の夏、その機会を突如奪われた。菅平での練習試合でタックルを受けて下敷きに。頚椎を損傷した。
その瞬間を今でもハッキリと覚えている。一番怖かったのは、足がどうなっているのか認識できなかったことだ。
はじめは自律神経が乱れ、ベットから起き上がることもできなかった。病院も長野、秋田、東京と移った。
「体幹が使えず、ずっとバランスボールに乗っているような状態でした」
早い段階でスマートフォンを持つことができ、周囲の人たちと連絡を取れたのは幸いだったが、受傷して1か月くらいは深刻なケガであることを理解できていなかったという。
「頚椎損傷がどういうものかもわからず、手術すれば治るものだと思っていました」
しかし、自分の置かれた状況を理解し始めるにつれて、「メンタルはだいぶキツくなっていきました」。コロナ禍の影響で、両親との面会すら叶わなかったことも堪えた。
「ラグビーが嫌いになりました」
モチベーションは日に日に下がり、生きる気力も失った。それでも、どん底にいた自分を救ってくれたのもまたラグビーだった。
10月末。花園予選の決勝で、東海大相模が桐蔭学園を初めて破ったのだ。
最後まで勝敗の分からぬ展開に(14-13)、気づけば声を出して病室からエールを送っていたという。
「本当に勇気をもらいました。みんなが頑張っているから自分も頑張ろうと。もう一度ここに戻りたいと思いました」
前を向けたのは仲間の支えだけではなかった。
高校時代に同じケガに見舞われた金澤功貴さん(常翔学園→摂南大→同志社大大学院)と木村豪志さん(天理)は励ましのメッセージをくれた。
「一緒にリハビリしている人たちからも元気つけられました。大人の方がほとんどですが、みなさん、すごく明るいんです」
BL東京、埼玉WK、東京SG、横浜E、神戸S、相模原DB、BR東京、浦安DR、花園L、RH大阪、江東BS…と、多くのリーグワンのチームは募金活動をおこなったり、メッセージ動画を送ったりと、さまざまな形で支援してくれた。
懸命なリハビリを経て、2年の夏に退院。9月から復学した。
そこではラグビー部の同級生が常にサポートしてくれ、駅から学校まで車いすを押してくれた。後輩たちは今も大会会場で募金活動に励んでいる。
それまで出席できなかった授業には、各担当の先生がオンライン授業を開いてくれた。
現在も週に2回は「J-Workout東京スタジオ」でのリハビリは欠かさないが、部活に顔を出す機会も徐々に増やせた。
年が明けてからは「分析」の役割を担った。
「もともと試合を見るのは好きでした」
敵陣22メートル内に入れた回数やペナルティの数などを集計することから始め、春の全国選抜大会からは相手の分析も始めた。
元ラグビーマンの父が伝手を辿ってくれ、2季前まで東芝ブレイブルーパス東京のパフォーマンスアナリストを務めた濵村裕之氏からアドバイスも受けられた。
「何かの形でラグビーに携わりたい」という漠然としていた将来の目標は、明確にアナリストに定まった。進学する東海大でも分析を続ける。
「ゆくゆくはリーグワンのチームでアナリストをしたいです」
大きな夢もできた。
「ラグビーを通して、脊髄損傷に関わらず障がいを持つ方々の支えになりたいと思っています。自分がラグビーで勇気づけられたように、今度は自分がラグビーで勇気づけたいです」
アナリストとなってからの最初の後悔は、自分たちの代で花園に行けなかったことだ。
選抜大会では初めて8強入りするなど新たな歴史を作り、仲間たちからもみなぎる自信が伝わっていた。
しかし、花園予選決勝では後に日本一となる桐蔭学園に敗れる。いつも以上に入念に分析したつもりだったが、「スタンドオフ、ノーマークでした」。
新人戦、県総体はケガで出場していなかった丹羽雄丸が復帰。花園で一躍スターとなったプレーメーカーにしてやられた。
「花園に連れて行くことが恩返しだと思ってやってきました。でもそれが叶わなくて…。いろんな人に支えていただきましたが、どう恩返しすればいいかわからなくなりました。たくさん考えた結果、支えていただいた方々に自分がいまどんな状態なのか、元気にやっているということを伝えたいと思いました」
中でも、一番に感謝を伝えたいのは両親だ。
「入院したての時はコロナで面会できませんでしたが、週に2回だけ差し入れをしたり、洗濯物を回収できる日があり、それに毎回欠かさず来てくれました。いまも毎日、自分のことを考えてくれています。心の支えです」
今回のインタビューは当初、記事が世に出るまでは黙っているつもりだったという。「取材場所がどうしても思い浮かばなくて。相談してしまいました」。はにかみながら続けた。
「直接伝えるのは恥ずかしくて…」
いつも、ありがとう。