コラム 2024.03.22

【ラグリパWest】オレンジの歴史を知る男(下)。荻窪宏樹 [クボタスピアーズ船橋・東京ベイ/アドバイザー]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】オレンジの歴史を知る男(下)。荻窪宏樹 [クボタスピアーズ船橋・東京ベイ/アドバイザー]
東京・秩父宮ラグビー場のホームゲームにおけるクボタスピアーズ船橋・東京ベイのファンサービスの一部。チームマスコットのスッピーの大型バルーンが鮮やかだ。チームアドバイザーの荻窪宏樹さんがベースを固めたチームは、大きな花を咲かせている


 荻窪宏樹(おぎくぼ・こうき)の久保田鉄工、現在のクボタへの入社は1984年(昭和59)4月である。

 今でこそチームには外国人を含めたプロ選手も一定数いるが、40年前は社員選手のみだった。ラグビーは仕事の余暇にやった。

 荻窪も上下水道のパイプの営業をやった。
「課長は和崎さんだったよ」
 入社に導いてくれた和崎嘉和が上司だった。和崎は慶応ラグビーの監督も経験している。

 荻窪の明治からの入社前年、関東社会人ラグビーは編成見直しを行い、それまでの三部の下に新たに四部を作った。

「三部で全敗して、入った時には四部からのスタートになったんだよ。だから、去年の優勝を考えれば、日本一弱いところから5階級を制したことになるよね」

 当時、関東社会人一部の上には全国社会人大会があった。リーグワンの前身である。この大会に関西、九州を含めた三地域の上位チームが集まり、社会人日本一を決めていた。

 久保田鉄工のラグビー部創部は1978年。荻窪が入社する6年前である。
「専用グラウンドはなかった。練習は江戸川の河川敷を使っていたよ」
 河川敷グラウンドは使用に抽選がある。選に漏れると皇居の周りを走った。今、チームはクボタの京葉工場内に専用の天然芝グラウンドを持っている。

 ラグビー部に追い風が吹いたのは1988年。2年後に控えた創業100周年の目玉として、会社の顔である「カンパニー・スポーツ」として、強化をしてゆくことが決まった。

「ラグビーで採用できるようになった」
 100周年で社名もクボタに変わった。荻窪はこの1990年限りで現役を引退した。29歳だった。引退まで3年は主将も任された。

 その後、採用を3年、主務を1年、1995年からは監督を3年つとめた。最後の年、関東社会人一部から改組した東日本社会人リーグにチームを昇格させた。この採用時代に獲った選手が今はGMの石川充である。

 荻窪は1998年から社業と並行して2期目の採用をつとめる。その5年後、全国社会人大会はトップリーグに変わる。リーグ2年目の2004年から2年間、再び監督を任された。成績は12チーム中6位と8位だった。

 その後、副部長を1年、部長にあたるチームディレクターを4年する。この間に獲得した選手が今の報道マネージャーの岩爪航(いわつめ・わたる)やチームディレクターの前川泰慶(ひろのり)である。

 2011年から日本ラグビー協会に出向する。サンウルブズの立ち上げを担った。国際リーグ、当時のスーパーラグビーで東京を拠点にした。2020年から3年間は協会会長だった森重隆を秘書役として補佐した。森は明治の先輩である。

 荻窪はまた女子ラグビー充実のために働いた。2016年、リオ五輪で男女の7人制ラグビーが正式種目になった。その2年前、太陽生命ウィメンズセブンズシリーズが始まった。
「あれがなかったら強化は難しいよね」
 今は3戦制から4戦制に変わっている。

 女子チームは荻窪が15歳、高校に入学してラグビーを始めた頃、珍しかった。もちろんこんなシリーズなども存在しない。

 高校は国学院久我山。ラグビー部の監督は中村誠だった。荻窪は中学時代、サッカー部。目黒第五(現・目黒中央)である。その顧問と中村が親しかった。
「誰か面白い子はいますか?」
 顧問は荻窪を推薦する。体は小さかったが、100メートルを11秒台で走った。

「8月から1月まで勉強したよ。簡単に入れる学校じゃなかったからさ」
 受験は突破できた。全国大会は2年時の58回大会(1978年度)で優勝する。決勝では40-6で黒沢尻工を破る。荻窪がSHのレギュラーになったのは3年からだった。

 連覇を狙った59回大会決勝はラストプレーで目黒(現・目黒学院)に逆転トライを奪われる。PKからなだれ込まれた。スコアは14-16。準優勝に終わる。
「残念だったよね」
 荻窪とHB団を組んだのはSO田村誠。優と煕(ひかる)の兄弟の父である。兄は横浜E、弟は浦安Dで父と同じポジションにつく。兄の日本代表キャップは70を数える。

 その競技を始めた15歳から数えて、荻窪とラグビーとの関りは3年ほどすれば半世紀を迎える。今でもクボタという会社のありがたみは感じ続けている。

 荻窪は日本ラグビー協会に出向中に60歳定年を迎えた。それ以前に会社は問うた。
「どうする?」
 荻窪は答えた。
「出向のままでいいです」
 先輩の森についてゆく決断をする。

 その森が一昨年の7月末、会長を退任した。クボタは間髪を入れずに会社復帰を認める。
「いい、って言ったのに、戻って来い、と言ってもらえた」
 この温かさがクボタという会社の神髄でもある。そして、アドバイザーについた。

 荻窪は話した。
「ウチの会社は真面目、素直、頑張る、といったラグビーのよさが通用するんだよね」
 モノ作り、職人気質のよさがこのメーカーには今でも息づいている。

 今季のリーグワンは10節終了時で6位。5勝5敗で勝ち点は26である。
「連覇は大変。みんなウチを狙ってくる。その中で、この苦戦がいい勉強になったと後から言えるようにしたいと思っている」
 この時だけは表情を引き締めた。

 荻窪はラグビーを絡めた就職相談に真下(ましも)昇の元を訪れた時、言われたことを覚えている。のちに真下は日本ラグビー協会の専務理事や副会長を歴任した。

「強いチームでやりたかったら、自分でチームを強くしたらいいじゃねえかよ」
 40年してその言葉が現実になった。荻窪は幸せな人生の中にいる。

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