コラム 2023.12.08

【コラム】熱情と行動のラグビーマン逝く。BL東京 開幕戦で、ブレイブルーヴ育ての親・難波良紀GMの追悼イベント

[ 成見宏樹 ]
【コラム】熱情と行動のラグビーマン逝く。BL東京 開幕戦で、ブレイブルーヴ育ての親・難波良紀GMの追悼イベント
ブレイブルーヴの裏方として動き続けた難波良紀さん。1967年2月15日生まれ、山形県立鶴岡工業高校出身。現役時代はLO、NO8(写真協力:松田努氏)

 12月9日(土)、リーグワン開幕日のブレイブルーパスのホストゲーム会場で、女子チーム ブレイブルーヴのGMを務めた難波良紀氏の追悼イベントがおこなわれる。

 故 難波氏は2016年に創立された女子チーム ブレイブルーヴを、立ち上げから支えたラグビーマンだ。享年56。脳腫瘍で2度の手術に挑んだが、11月8日に自宅で逝去した。

 情熱と行動の人。2000年に起業し、自ら社長を務めたデータバンク株式会社がルーヴの活動を支えてきた。マネジメント全般から経済的な工面も厭わず、女子選手たちの育成と強化に長く、熱く携わった。

 山形は鶴岡工業高校でラグビーを始め、その後は草ラグビーでもLO、NO8としてプレー。息子・諒平さんが小学校1年で府中ラグビースクール(現ブレイブルーパスジュニア)に加わったのをきっかけに、スクールの保護者として育成会の代表も務めた。献身的な動きに目を引かれたのが、当時スクールの監督だった吉田峰生さん、現在、ルーヴの代表を務める仕掛け人だ。

 吉田さんが、当時、同じく保護者だった松田努さん(元東芝、日本代表FB)と難波さんに声をかけ、女子チームの種ができた。吉田さんは、当時スクールで増え始めていた女子の受け皿の必要性を感じていた。松田さん、難波さんとともに府中で始めたのが「松田塾」と銘打った女子練習会。

「どんな環境の子にもラグビーの楽しさを」

 その意義に共感した難波さんの長い疾走が、そこから始まった。

 初速を生んだ共感は難波さんの揺らがぬ信念になった。女子ラグビーは当時、今よりももっとプレーの場が限られていた。特に、男女一緒にプレーできる中学のスクールを卒業して以降の活動の場がない。一方で、のちに教室からチームとなり設立されたブレイブルーヴは、初心者が多いのも特徴だった。

 選手がいちばん大切。誰でもプレーができる場をという趣旨から外れることには、NOの姿勢を通した。難波さんを世話役につけた、いわばリーダーの吉田さんに対しても、いつも意見をはっきり示す人だった。同志としての信頼感を土台に、それぞれの役どころに力を尽くしてきた。

「女子ラグビーのため、ルーヴのために馬車馬のように動いていた」(吉田さん)

 難波さんと同年代の松田さんもまた、松田塾以来変わらずチームを率いる看板監督にして、奉仕の人だ。本人は口にしないが一貫してボランティアで指揮を執り続ける。いわば戦友の踏ん張りに、兄貴分の難波さんの情熱はより燃えた。

 2016年、ブレイブルーヴが発足。3人の取り組みが正式にチームになった。難波さんはGMとして「教えること以外は全部やっていた」(松田さん)という。

「事務的なことから現場のサポート、選手の勧誘まで全部です。それでいて表には出ない」(松田さん)

 周囲の支援、応援も実り、初めは年代関係なく集まっていた女子、女性たちも、今はシニア、ユース、ジュニアに分かれて活動する体制になった。総勢約50人。各カテゴリーが、それぞれの目標に向かってプレーしている。

 トップチームのシニアは2022年に初めて、創立以来目標としていた太陽生命カップセブンズシリーズにゲスト出場した。2023にはコアチーム入りを果たした。それはとりも直さず松田監督と難波GMの悲願だった(2023年6月の入替戦では勝ち残ることができず、来季は再びコアチーム入りにチャレンジする)。

 地域連携を進める東芝ブレイブルーパスの薫田真広GMは、2022年末に初めて難波さんと向き合い話した。ほぼ初対面だったやりとりから、ただならぬ熱を感じたという。

「自分はラグビーにすべてを捧げる、と言葉にしていた。チームの監督であるジョン(松田)を、男にする、そんな気概もあった」(薫田GM)

松田監督、吉田峰生代表と手塩にかけて育てたブレイブルーヴ(写真協力:松田努氏)

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