【ラグリパWest】④最後のご奉公。今里良三[花園近鉄ライナーズ/統括]
花園近鉄ライナーズの存続は、近鉄グループホールディングスにとって、今里良三らOBたちが仕事と両立をさせていたことに対するいわば「褒賞」と言っていい。
それが歴代トップの申し送りとなって今に至る。そのベースには、佐伯勇が書いた「士気高揚」や宣伝広告もある。
半世紀以上前はラグビー選手には常に社業がついて回った。今里は振り返る。
「その頃、ラグビーはアマチュアスポーツの権化(ごんげ)でした」
プロはいない。
世界のラグビーを統括する当時のIRB=International Rugby Board(現WR=World Rugby)が正式にプロ化を認めたのは1995年。今から30年ほど前である。
そのアマチュアリズムを守っていた顕著な例はチームメイトだった坂田好弘に見ることができる。今里より4学年上の坂田は1969年に半年間、ニュージーランドにラグビー留学をした。今里が入社した年である。坂田は日本代表のエースWTBでもあった。
そのあたりは、ラグビージャーナリストの村上晃一が24年前に著した良書、『空飛ぶウイング』(洋泉社)に詳しい。
<留学する条件は無給休暇というものだった。休職ではないが、その間、給料は支払われず、保険料などは自分で払わねばならない。坂田は、兄をはじめ親戚中を駆け回って、費用を工面した>
当時は退社することなく、社員の身分のままで留学を認めてもらえただけでも「御の字」だった。坂田は南島、カンタベリー州のクライストチャーチを拠点にした。今、その街はスーパーラグビー・パシフィックのクルセーダーズの本拠地になっている。
研鑽を重ねた坂田は州代表に入る。もう半年ほど滞在すれば、日本人初となるオールブラックス入りの可能性もあった。しかし、社業もあって帰国している。
過去のそのような事情もあって、ラグビーは今でもグループ内で特別な配慮をなされている。それは大卒総合職の枠を毎年、振り分けてもらっていることでもわかる。
全体の総合職の採用人数は年によって変わるが、10人から20人程度。総合職で採用され、実績を積み上げていけば、150社ほどを束ねるグループの社長や会長になれる可能性を持つ。小林(哲也/近鉄グループホールディングス会長)になれる、ということである。
その小林は並みのトップではない。中高生の頃は剣道をやった。果敢である。
「会長は身を挺する方です」
今里は評する。
だからこそ、組織を生かすため、野球では自ら汚れ役に回り、その後、当時は日本一の高さ300メートルを誇ったビル、「あべのハルカス」の建設を主導した。
この超高層ビル建設では社内はおろか、銀行サイドの反対もあった。完成後、このビルのある天王寺は、関西国際空港から連なるインバウンドの玄関口となる。ビルの高さや百貨店の開店などと相まって、外国人観光客にとって日本の名所のひとつになった。
その小林をしても、10億から20億円の間と言われているラグビーの運営費を無条件で割り当てるのは難しい。
グループの主業は言うまでもなく鉄道である。今、その初乗り運賃は180円。この運賃から運営費を生むには、天文学的な枚数の切符を売らないといけない。
そのため、ラグビー自体の自助努力が求められる。社内を納得させるためには、成績を上げてもらわざるを得ない。
昨年、リーグワンのディビジョン2(二部)から昇格しなければ、「休部する」といううわさも流れた。
チームは結果的に一部に上がり、先のシーズンでは1勝15敗と最下位12位に沈んだものの、降格を回避する。入替戦では浦安D(旧NTTコミュニケーションズ)に36−14、56−21と連勝した。
そこからさらに飛躍するために今里は戻って来る。それはグループのさらなるチーム存続の意思表示にほかならない。
ヘッドコーチを任された向井昭吾は、潤沢な資金でチーム運営をできない点においても適任である。前回、指導したコカ・コーラの予算も限られていた。その状況下で、力を尽くすことには慣れている。
今里はリーグワンでの目標を語る。
「当然ながら、優勝です。ただ、今すぐ結果を出せ、と言われても難しい。向井さんという指導者を得て、まずはリーグにおいて半分くらいの位置におれるようにしたい。会社からミッションとして伝えられた訳ではありませんが、感じ取りました」
一足飛びには行かないことはわかっている。まずはトップ6を見据える。
「私はライナーズが大好きです。今の自分を作り上げてくれましたから」
その思いを形に変える。愛する紺エンジのジャージー、そしてそのチームを残してくれているグループのために、今里は最後のご奉公に打って出る。