コラム 2023.07.07

【ラグリパWest】チャレンジ。 後藤悠太 [LeRIRO福岡/ヘッドコーチ]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】チャレンジ。 後藤悠太 [LeRIRO福岡/ヘッドコーチ]
昨年、創設された社会人ラグビーチーム「LeRIRO福岡」のヘッドコーチをつとめる後藤悠太さん。その球歴は桐蔭学園、早大、リコーと華やかだ。神奈川県の高校教員を辞してこのチームにかける



 一流企業と公務員、「安定」とうらやまれるどちらの仕事も辞めた。後藤悠太は今、人生3つめの仕事に取り組んでいる。

 社会人ラグビー、「LeRIRO福岡」のヘッドコーチである。

 読みは「ルリーロ」。昨年3月に創設された。その立ち上げから携わる。後藤には創造者のひとりたる喜びがある。
「魅力的なチャレンジと思っています」
 日焼けした顔は笑み崩れ、黒目がちの双眸は輝く。冒険家のような雰囲気を漂わせる。今年10月で38歳になる。

 ルリーロの目標はリーグワン参入。チーム創設以前、九州では宗像サニックス、コカ・コーラとトップ2チームが休部になった。その選手たちも迎え入れ、福岡の地から挑む。

 後藤はグラウンドでトップのヘッドコーチとはいえ、なんでも屋である。
「今は仕組みを作ることだと思っています」
 練習の組み立てのみならず、遠征の手配、パートナーと呼ばれる支援企業向けの営業メニュー発案、ファンのコミュニティー作りも考える。その中には、遠征先からの荷物を配達員と一緒に車から降ろすことも含まれる。

 その奮闘もあって、ルリーロは昨秋、トップキュウシュウA(6チーム構成)で優勝する。関東、関西、九州の三地域のリーグ順位決定戦では、大阪府警に22−36、東京ガスに14−90と連敗したものの、創部1年に満たないチームとして足跡は残した。この三地域のリーグはリーグワンのディビジョン1(一部)から数えれば四部相当になる。

 ルリーロは日本のラグビー界において、親会社を持たないチームとして初のトップ参入を目指している。選手らは協賛企業で働き、生計を立てる。プロではない。似たような運営は釜石シーウェイブスに見られるが、出発は企業チームの新日鉄釜石だった。現在の日本製鉄である。

 その偉業を成すためには、ルリーロの本拠地であるうきは市などとの緊密な関係は不可欠だ。協力体制強化のため、昨年6月、ルリーロは市と市の商工会、そして練習拠点となる浮羽究真館高校と4者協定を結んだ。

 後藤は目じりを下げる。
「地域のみなさんは温かいです」
 江戸時代より街を筑後街道が貫く。今は国道210号に変わったが、昔から人の往来は絶えず、よそ者でも受け入れる土壌がある。

 その道が至る大分が後藤の出身地である。3歳上の兄・翔太の影響で小1から大分ラグビースクールに入った。SHの兄を追いかけ、桐蔭学園、早大と進む。兄は神戸製鋼(現・神戸S)で日本代表キャップ8を得る。

 後藤は高3時、WTBとして冬の全国大会に出場する。83回大会(2003年度)は3回戦敗退。大分舞鶴に10−27だった。早大には一般入試で現役合格する。スポーツ科学部だった。同期は五郎丸歩である。4年間で大学選手権では3回の優勝を味わった。

 スピードと172センチのサイズをFW周りで生かすため、2年時にSHに移る。4年秋の成蹊戦はリザーブに入った。出場機会はなかった。翌週、ヒザのじん帯を断裂。後藤の大学ラグビーは終わった。

 そのケガの前に、声をかけてくれたチームがある。リコー(現BR東京)だった。ただ、チーム所属は4年と短い。
「池田さんらがいました」
 池田渉(わたる)は後藤の在籍時期と重なる。日本代表キャップ14を持ち、セブンズ代表でもあった。

 後藤は2012年3月で現役を引退する。社員選手だったので社業に専念した。
「ラグビーのあとは2年間、営業マンとしてOA機器を売っていたました」
 世界的企業のリコーにおれば、将来は安泰である。そういう気持ちもあったが、ラグビーに関わりたい衝動は止まらなかった。

 2014年から保健・体育教員になる。神奈川県の教員採用試験に合格した。川和(かわわ)で5年、県立川崎の定時制で3年を過ごした。川和ではラグビー部の顧問もつとめた。

 ルリーロの代表、島川大輝から招へいの声がかかったのは県立川崎の3年目である。早大ラグビー部には同期として入部した。
「彼は体を壊して退部しました」
 そのあとも交流は続いていた。

「悩みました。でも、生徒が、どうしよう、と相談に来たら、やりなさい、と答えていた。やらない後悔より、やって後悔だよ、と。その時が自分にも来た、思いました」

 後藤はこの地に来て髪を伸ばしている。普段は後ろで束ねる。この長髪も定時制で伝えてきたことの実践にほかならない。
「生徒たちには、ちゃんとやることをやっていれば大丈夫、と言ってきました」
 服装や頭髪のような外面ではなく、その行動で理解してもらえるように努める。取材時、後藤は30分前に現場に着いていた。

 家族は東京に残してきた。妻の斗貴子(ときこ)と小学生の息子2人である。会えるのは3か月に1回ほどだ。
「彼女には彼女の人生がある。辞めさせてこっちに連れてくるのは違います」
 妻とは社内恋愛だった。今も研究職として働いている。その人格を尊重する。

 家族からの理解を得て、後藤は自分が望んだ日々を過ごしている。
「楽しいけど、めっちゃしんどい部分もあります。誰もやったことがない。何が正解か分からなさ過ぎます」
 週末の練習も正しいかを考える。
「土曜出勤の会社で働いている選手なら、有休を申請しないといけません」

 悩み抜く毎日。あとから思えば、それすら幸せなことが多い。悩みながらも、自分で選べる境涯にいるの。そして、そこにこそルリーロの未来がある。社会人ラグビーの先駆けとなるため、一流企業と教員での経験を生かし、後藤はそのチャレンジを続けてゆく。

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