コラム 2023.03.06

【コラム】弱小校、少人数校で頑張る後輩たちへ。

[ 明石尚之 ]
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【コラム】弱小校、少人数校で頑張る後輩たちへ。
松宮龍太郎は筑波大の4年生。183㌢、101㌔のLO 。4月からは筑波大の大学院に進む。スタッフとしてラグビー部をサポートする(撮影:BBM)

 入学式の日、背中に「PHOENIX(フェニックス)」の文字が入ったシャツを着る、ガッシリした同級生を見て逃げ出した。

 松宮龍太郎。この3月に卒業する筑波大の4年生だ。
 この4年間、何度も挫折を味わった。

 フェニックスは東福岡高校ラグビー部の愛称である。背中の主は、木原優作だった。筑波を7年ぶりに全国4強に押し上げた主将だ。2月には埼玉ワイルドナイツの一員になった。

 そんなラグビーのエリート街道を歩むキャプテンとは正反対の道を、松宮は歩んできた。

 福岡は北九州市出身。小学1年で青森に引っ越し、弘前ラグビースクールに通った。人数が足りなくて、ずっと「単独チーム」には縁がなかった。

「小中も単独で組めませんでした。中学は青森だけでは足りないので、秋田の上の方にいる人たちと一緒に、北東北選抜の名前でやってました」

 中高一貫で通った弘前学院聖愛には、ラグビー部がなかった。
 だから高校に上がったタイミングで、「自分が創部しました」。

 部員は1人だけだったけど、普段の練習には困らなかった。中学時に合同練習をしていた、東奥義塾高校の木村先生が練習に誘ってくれた。
「本当の部員のように扱ってくれました」

 3年時には担任の先生の反対を押し切り、センター試験を間近に控えながらU18合同チーム東西対抗戦に出る。憧れの花園の舞台で、フル出場。トライも挙げた。
「前日までラグビーはしていなくて、体はぶよぶよ(笑)。30分でバテバテでした」

 ラグビーが好きだった。勉学に励む毎日にあって、「ラグビーが恋しかった。良い息抜きでした」。
 いつしか、レベルの高い環境に身を置きたくなった。同郷の先輩らが筑波大に進学していたこともあり受験を決意。一般受験で合格した。
 楽しいキャンパスライフが始まる、はずだった。

 しかし、入部初日のコンタクト測定で負傷した。「合同チームなので、体力テストなんてやったことがなかったんです」。
 周りは高校代表や花園で活躍した、「テレビの中の人たち」ばかり。挑戦者なのに出遅れた。

「おどおどしている間に、みんなはどんどん上のチームに上がっていった。自分は試合に出られず、体力もついてこない。これは無理だと。合同チームで出る試合だとイケイケで、LOなのにキックを使ったこともあります。ちょっと自信がある状態で入ってしまったのがダメでした」

 あまりのレベルの違いに心が折れた。
 6月には学生スタッフへの転向を申し出て、選手を辞めた。

 ところが、2年生になって心が落ち着き始めると、またプレイヤーとしての血が騒いだ。
「やれる環境があるのにやらないのは違うのではないか」。そう感じた。
 嶋﨑達也監督の理解もあり、再挑戦を決めた。

 不運だったのは、ほどなくして国内にコロナウイルスが流行ったこと。練習できない日々が続き、体力はどんどん落ちた。
 ようやく外で体を動かせるようになった夏ごろ、あの時の記憶がフラッシュバックしてしまう。体力測定をしている最中に、過呼吸で倒れた。「グラウンドに行くことを考えられなくなりました」。つくばを離れ、実家に帰った。

 2か月ほど経って戻ってこられたのは、同期の支えがあったからだ。青森にいても、同期はまめに連絡をくれていた。
「戻ってもはじめのほうはトラウマで、練習に参加できなかったのですが、みんな普通に接してくれました。同期には感謝しかありません」

 学年ミーティングでは、その思いを伝えた。
「正直、上(Aチーム)に上がれると思ってない。でも、みんなには感謝してる。だから最後までやり抜きたい」
 寡黙な松宮が胸中を打ち明けたことをきっかけに、同期の仲が深まったことを木原は覚えている。そのあと、全員が全員の「良いところ」を言い合った。普段は照れくさくて言えない本音をぶつけた。

 2年間で二度グラウンドを離れ、分かったことがあった。
「自分のことを理解できるようになりました。これ以上走ったらダメだなとか。こういうプレーが得意だなと」
 フィジカルにだけは自信があった。東奥義塾高では雪上ラグビーが盛んだった。膝丈くらいまで積もった雪の中でのラグビーで、足腰は鍛えられていた。
「自分は体力がないし、そこはもうあと2年ではみんなに追いつけない。(リザーブの)19番を着るために、フィジカル一本で勝負しようと。尖った気持ちでやってました」

 3年生が終わる頃には、諦めていた水色ジャージーを着たいと思えるまでになった。
 最上級生になり、覚悟を決めた。
 最後の1年はラグビーにすべてを注ごう。
 新チームでは主務の候補にも挙がったが、楢本鼓太朗に決意を伝えてその役を託した。

「嶋さん(嶋﨑監督)がよく言っていたのは、ジャージーの裏にはいろんなドラマがあるということ。自分もそのジャージーを背負ってみたいと思いました」

 4年の春にはじめてBチームへ。
 そして、秋。チャンスは訪れた。

 対抗戦第2節、早稲田戦。背番号19のジャージーは、木原キャプテンから手渡された。
 その試合では出番がなかったけれど、続く帝京戦でもメンバー入りし、後半31分にはピッチに立った。

「短い時間で緊張もあり、手応えはなかったです。でも人生の中で一番の成功体験。自分を誇りに思います」

 奇しくも、その帝京戦が最初で最後の公式戦になった。
 翌週のジュニア戦で、重い脳震盪で途中交代。その後も首の痛みに悩まされ、眠れない日々が続いた。
 復帰したときには対抗戦が終わっていた。

 でも、表情は晴れやかだった。
「やれるとこまでやれた。だから上を目指すのは最後にしようと。踏ん切りがつきました。ラグビーはすべてやり切ったという思いが強かったです」

 最後は慎重に選手を続けながら、試合前のウォーミングアップでは、タックルバッグを持ってメンバーのタックルを受ける役を担った。少しでもチームに対して自分にできることをしたかった。

 1月2日。5-71帝京大。
 壮絶な4年間が終わった。
「一生の仲間に会えました。大学の4年間は濃過ぎた。中高の記憶がなくなるほどです。そのくらい楽しい日々でした」
 目を潤ませてそう言った。

 弱小校、少人数校で頑張る後輩たちへ、伝えられることがある。
「合同チームで通用していたことは、少し時間がかかるかもしれないけど、大学でも通用する。上のカテゴリーでやることを諦める必要はない、と伝えたいです。それは僕だけでなく、(合同チーム出身で対抗戦に出場した)菅井(奏良・安積高)や倉井(瑛志・旭丘高)が証明してる。同期の菅井とはよくそういう話をするんです。俺たち、よくやったよなと(笑)。やってみないとわからないです。ライバルも、同じ人間ですから」

 ラグビーを続けてみよう。
 時には大きな壁にぶつかることもある。
 でも大丈夫。仲間が手を差し伸べてくれる。

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